書籍データは持っている本のものです。現在最新のデータではありません。
『太字斜体』の見出しは書籍名、「太字」の見出しは単行本収録の作品名です。
「斜体」は引用です。
いや、おもしろかった(^^)v |
合戦も剣客もない時代小説
これが滅法おもしろい!!!
と惹句にあるとおり、血の臭いも暴力も目を背けたくなるような悲惨もなくて、これまでの冲方丁氏の小説とは一線を画す、とても読みやすくて気持ちのよい、楽しい小説でした。
とはいえ、エネルギーをもてあまして行き場を求めてあがく青年たちの焦燥には、大好きなデビュー作『黒い季節』と同じ匂いがありました。
そうした苦悩を乗り越えて、自らの場所を得て、自らのおとなになっていく主人公をはじめとする登場人物たち……。
かれらはそれぞれ、まっとうにまっすぐに精進しつつ互いに切磋琢磨し、自分の人生を次の世代へと受け渡し受け渡ししながら、過去から未来へとつなげていく……、自らの世代のなしたことを乗り越えていこうとする次の世代へ向ける期待のこもった暖かいまなざし、そして、自らが乗り越えるべき基盤を築いてきた前の世代を慕う尊崇のまなざしが、気持ちのよい通奏低音となって響いてきます。
この小説に描かれているのは、現実には嫉妬や憎悪が介在して深刻な対立となって現れることのままある、ライバル同士や世代間の関係性……というか、あらゆる人間同士の関係性の理想の形でもあるのでしょう。
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丁寧でバランス感覚に溢れた読みやすい文章、ユーモアのある筆致。
新作を上梓するたびに、内容に相応しい文体を模索して、伝えるための工夫を重ねる作者の今回の日本語は、わたしにとっては、時代小説として違和感なく読める、なじみ深い、安心して読める日本語になっていました。
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やはり冲方丁氏は、非常に力量のある書き手で、しかも、尋常ではない精進の人でもあるようです。
この作品が吉川英治文学新人賞を受け、さらには本屋大賞を受けるなどして幅広い読者層を獲得する下地が整ったことで、これからますます活躍の場も広がっていくであろう冲方丁氏が、着々と進化を続けていったいどこまで行こうとしているのか……、とてもとても楽しみですp(>_<)q
冲方丁氏のファンのひとりとして、願わくば、最後までついて行きたいものではあります。
たくさん、たくさん、たくさんの羊…… |
この時期、というのは後にキリストと呼ばれることになるプログラマーが業務を開始する前後二千年あまりのことだが
っていうフレーズを『救世群』に見つけた時点で完璧にやられちゃいましたよ。
『メニー・メニー・シープ』を読んだ時から、羊がかなり重要な役割を持っているんじゃないかと思っていたのだけれど、こういう形で繋がってくるとはなぁ。
キリストが出てきたって事は、当然、「過越しの子羊」や「神の子羊」にも繋がっていくのだろうし……。
わりとありがちな、孤立してちょっとおかしくなっちゃった宇宙植民地のお話しだなって思ってたんだけど、そんなに単純なものでは全然なくって、ものすごく長いスパンで人類史を俯瞰する小説になりそうで、「早く次を読みたいよぉ〜〜っ!!」と、叫びながら、作者がこの小説で何を企んでいるのか、読み直し読み直しして、いろいろ考えて楽しんでいます。
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主要人物が惜しげもなくどんどん死んじゃって「あれれ?」なんですが、フェオドールやクルメーロなんていう共通する固有名詞が時代を隔てて『救世群』と『メニー・メニー・シープ』に出てくる上、時代を隔てた両者は、記憶や個性も完全にではないにしろ、少なくともその一部は同一であろうことなどから鑑みて、それなら、カドムと児玉圭伍の関係は? だったら、イサリは檜沢千茅なの? じゃあ、ミヒルは一体誰なんだ? ボースンが権力を手放さないって事は、つまり、実は航海はまだ終わっていないんじゃないんだろうか? 等々、もう、考え始めるときりがありません(^^ゞ
あと、かれらの航海はもともと、救世群に新天地を与え、棄民するためのものだったのが、何らかの理由で、航海が終わったら帰還するはずだった乗員たちまで帰還できなくなってしまってこんな事になったのかも……なんても思っているんですが、どうかなぁ。
でもきっと作者は、次巻でまた、思いもよらない形で意表を突いてくれることでしょう。
期待度大で待っています。
すべての蛙王朝の弥栄を…… |
今回の短編集でも、山尾悠子は、それぞれに魅惑的な異界の風景を見せてくれたのですが、中でも、「ゴルゴンゾーラ大王あるいは草の冠」という可愛らしい小品がとってもお気に入りになりました。
「妖しくあでやか」な蛇の女王様がステキです。
とはいえ、これが、蛙壷黴(カエルツボカビ)病という、現実に、蛙を含む両生類を絶滅させるかもしれない病を下敷きとしたものであるとあっては、可愛らしいなどと脳天気に喜んでいるわけにもいきません。
この小品でも、ゴルゴンゾーラ大王様の「獅子奮迅孤軍奮闘の戦い」の甲斐もなく、蛙たちは滅びてしまうのですから、本当は、恐ろしくて悲しくて寂しいお話なのです。
これを可愛らしいなどと感じてしまったわたしの感性のほうが問題なのかもしれません。
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梅雨の頃に、いつも姿を見せてくれていたちっちゃい緑色の雨蛙(アマガエル)の姿を見ることもとんとなくなって、ちょっかいを出しておしっこを引っかけられることもなくなってしまいました。
時々道路をノタノタ歩いていた蟇蛙(ヒキガエル)の姿も見かけなくなりました。
もっともこれは、壷黴病が騒がれるずっと前から見なくなっていたので、壷黴病のせいではないと思うのですが……。
そういえば、これは昆虫ですが、冬のさなかに木の枝からぶら下がってユラユラ揺れている蓑虫の姿を見ることもなくなってしまいました。
日本の蓑虫は、中国大陸から侵入した大蓑蛾寄生蠅(オオミノガヤドリバエ)にやられてしまって絶滅寸前とか。
作者に習って、わたしも、すべての蛙王朝と両生類王朝と、そして蓑虫王朝の弥栄(いやさか)を心より祈ることにしたいと思います。
うーん、もう一つ……かな? |
独特の幻惑的な文体が誘(いざな)うマキリップの異界で展開される復讐譚は、主人公に感情移入して大層おもしろく読めたのだけど……、主人公以外のキャラクターによって解決策がもたらされるという結末の付け方がもう一つ残念(>_<)
『オドの魔法学校』もそうだったけど、マキリップにはこのパターンが多いのだろうか?
この物語は、敵方の王女であるルナを主人公として読みたかった。
あれほどの偉大で恐ろしい男を父に持ち、何の疑問も持たずに父を仰ぎ見ていた彼女が、どのような経緯で、自らのうちに父と相反する想いを育てるに至ったのか、そこに、どれほどの葛藤があり、苦悩や恐怖があったのか……、そして、すべてを見通す父の目を逃れて生き延びるために、どれほど賢く立ちまわらなければならなかったのか……。
思いをはせると、主人公の苦闘もなんだか色あせてしまいます。
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主人公の息子のホリスが賢い上にとってもいいやつで、わたしの贔屓になりました(^^)v
オシラサマって…… |
あの水木しげるが『遠野物語』をどう描いたのだろうと興味を持って読んでみたのですが、水木しげると『遠野物語』って凄く親和性があるなぁ……っていうか、日本のこうした土俗的な世界のイメージは、わたしの中ではすでにきっちりと水木しげるの世界になってしまっているようで、気をつけたほうがいいのかもしれません。
日本のフォークロアの世界を見る時に、水木しげるのイメージをはずして自分の目で見るようにしないと、見逃してしまったり、間違えてしまったりする恐れがあるんじゃないかと思うんですネ。
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ところで……、オシラサマっていったい何なのだろうというのは『遠野物語』に触れるたびに感じる疑問です。
『遠野物語拾遺』に見られる、馬を殺してその皮を剥いだり、その皮に娘が包まれてといったエピソードと、蚕を煮殺してその皮(繭)から絹を取るという養蚕との関連性は容易に想像されるのだけれど、どうしてそれが馬なのかがもうひとつわからない。
本書の中尾亘之氏のコラムでは「馬を大事にするあまり」というような近現代的な解釈がなされているけれど、どうも釈然としません。
で、ちょっと調べてみたら、オシラサマに関するこうした物語群は、『捜神記』にも類似の物語が見られる、大陸由来のものなんですネ。
ならば、オシラサマ信仰は、古代インドの「馬祀祭(アシュヴァ・メーダ)」あたりに繋がっていく豊穣神話のバリエーションの一つと考えていいってことになるわけで、それならわかるような気がします
もしかすると、オシラサマはアシュヴァ様(「アシュヴァ」はサンスクリット語で「馬」の意)なのかしら?
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そういえば、『古事記』には、天照大神の天の岩戸隠れの原因になる、
天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、神御衣(かむみそ)を織(お)らしめたまいひし時、其の服屋(はたや)の頂(むね)を穿(うが)ち、天(あめ)の斑馬(ふちこま)を逆剥(さかはぎ)に剥ぎて堕(おと)し入るる時に、天の服織女(はたおりめ)見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき。
という素戔嗚尊の乱暴狼藉の記述があって、ここにも、オシラサマと類似の、「馬祀祭(アシュヴァ・メーダ)」との関連が匂うように思うのだけど、どうなんだろう。
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もっといろいろ知りたいな。
何を読めばいいんだろう?
多分、既にきちんとした研究がなされているんだろうけど、現在、わたしの手の届くところには見あたらない(>_<)