イザナキの妻イザナミは、たくさんの神々を生んだあげく、火の神カグツチを生んだため死んでしまった。
イザナミを取り返しに黄昏(よみ)の国へ行ったイザナキは、しかし、イザナミを生き返らせることができなかった。
このイザナキが黄昏の国の汚(けが)れを払うため、川の水で身体を洗い清めたときに生まれた神々の一柱がスサノヲである。
スサノヲは母であるイザナミの死を悲しんで、「八拳須心前(やつかひげむねのさき)に至(いた)るまで啼(な)きいさちき」──おとなになって長いひげが胸に垂れ下がるほどになっても泣いてばかりいた。
スサノヲが泣くと、「青山(あおやま)は枯山(からやま)の如(ごと)く泣き枯らし、河海(かわうみ)は悉(ことごと)に泣き乾(ほ)しき。
是(ここ)を以(も)ちて悪(あ)しき神の声は、狭蝿如(さばへな)す皆満(みなみ)ち、萬(よろず)の物(もの)の妖悉(わざわひことごと)に發(おこ)りき」──青々と山に茂っていた木々は枯れはて、川や海は干上がってしまい、うるさく飛び交う蝿のような悪神の声がそこらじゅうに溢れかえって、さまざまな災いが起こった。
このためスサノヲは、イザナキによって追放されてしまうことになる。
追放される前に高天原(たかまのはら)を治めている姉のアマテラスに別れを告げようと、スサノヲは天に上がって行くのだが、この時、「山川悉(やまかわことごと)に動(とよ)み、國土皆震(くにつちみなゆ)りき」と、その様があまりに荒っぽいので、アマテラスはスサノヲが高天原を奪おうと攻めてきたのだと誤解してしまう。
アマテラスは懍懍(りり)しく男装し、弓を振り立て、「堅庭(かたには)は向股(むかもも)に踏みなずみ、沫雪如(あわゆきな)す蹶散(くえはらら)かして」──堅い地面を泡雪のように蹴散らし、股のあたりまで沈み込むほど大地を踏みしめて、雄叫びを上げてスサノヲを迎えたのである。
そこでスサノヲは、邪心のないことを証明するために、“誓約(うけひ)”をして子を生むことになった。
“誓約(うけひ)”というのは、例えば、コインの裏表でどちらが勝ちか決めるという類(たぐい)の古代の占いの一種である。
アマテラスがスサノヲの持っていた剣を三つに折って、神聖な井戸の水で洗い清め、これを粉々に噛み砕いて吹き出すと、息が霧となって、なかから三柱の男の神が生まれた。
スサノヲがアマテラスの角髪(みずら)に巻いていた勾玉(まがたま)を神聖な井戸の水で洗い清め、粉々に噛み砕いて吹き出した息のなかからは、五柱の男の神が生まれた。
これでスサノヲに邪心のないことが証明されたのだ。
スサノヲは大喜びで勝ち誇る。
そして喜びのあまり、スサノヲは高天原で乱暴狼藉の限りを尽くすのである。
スサノヲはアマテラスの大事な田を荒らし、アマテラスの馬の皮を剥(は)いで、アマテラスの衣を織る神聖な服屋(はたや)──布を織る家──に投げ入れる。
驚いた服織女(はたおりめ)は、「梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて」死んでしまった。
このため、恐怖したアマテラスが天(あめ)の岩屋戸(いわやと)に隠れてしまい、世界が暗闇になってしまうという事態が起きたのである。
この後(のち)、地上に追い払われたスサノヲには、ヤマタノヲロチ退治の大冒険が待っている。
『古事記』は8世紀初頭に成立したわが国最古の書物で、興味深い神話伝説が多数収録されています。
文明世界の道徳感に慣らされてしまっていない野生的な古代人の素朴な荒々しさが魅力です。
愛も、死も、残酷も、すべてが素朴で豪壮に語られます。
後世、国の形を整えて、人々を律するために日本が受け入れた外来の倫理感や宗教といった余分な雑念に妨げられない古代人が、素直に人間的な欲望の赴(おもむ)くままに想像し、作り上げてきた神々の物語。
『古事記』が書かれた時にはすでに消え去ろうとしていた、歴史以前の古代人の最後の息吹……。
難しいことを考えればいろいろあるのでしょうが、無心に、ファンタジーとして楽しんでしまいましょう。
日本の神様は、お話自体を素直に読んでいる分には、ほとんど“触らぬ神に祟(たたり)無し”の神様で、お説教のないところが快く思われます。
そこにいろいろな立場の人間の思惑が絡んできてしまうのが困ったところなのですが……。
『古事記』のなかで特におすすめなのが、冒頭でご紹介した“スサノヲ”のお話です。
泣き騒ぐスサノヲの、荒っぽく直截(ちょくさい)で豪快な様や、アマテラスやスサノヲのなす事が天地を揺り動かす姿。
いかにも自然界を司る神様らしく、豪壮で楽しい描写です。
細かく砕かれた剣や玉が霧となって宙に広がり、キラキラと輝くなかからいろいろな神様が生まれ出す、幻想的なイメージが美しい誓約(うけひ)のシーンも素敵です。
乱暴しにきたのではないという誓約(うけひ)に勝って、喜び勇んで、結局、アマテラスの恐れていたとおりに乱暴狼藉を働いてしまうスサノヲが、なんだかおかしくて笑ってしまいます。
もっともスサノヲには、高天原を奪おうという複雑な邪心は確かにありません。
その意味では誓約(うけひ)の結果は正しかったのです。
おとなになっても母を慕って泣いていたスサノヲの精神(こころ)は、論理の通らない、無邪気な子供のままでした。
ミーハーの対象としては格好の“ヤマトタケル”も、実際は随分荒っぽい乱暴な人物です。
ヤマトタケルは景行天皇(けいこうてんのう)の皇子(みこ)で、スサノヲとは違って神様ではありません。
父親に疏(うと)まれ、その命令で、朝廷に服従しないものたちと戦って、日本中を西へ東へ転戦し、最後に故郷の倭(やまと)
を懐(おも)いながら帰りつけずに死んでしまう悲劇の英雄です。
が……、現代の目から見ると、彼のやることはかなり酷い。
ヤマトタケルは双子の兄弟の弟だったのですが、朝夕の食事に出てこない兄を教え諭すよう父親の天皇に言われて、その兄を掴(つか)み潰(つぶ)し、手足を引きもいで、薦(こも)に包んで投げ捨ててしまいます。
そうして彼は、「もう教え諭してしまいました」とすましているのです。
十重二十重(とえはたえ)に兵で囲んで敵を近づけないようにしていたクマソタケルの兄弟──クマソタケルは兄弟二人の名前です──のところへは、女装して美しい少女の姿で近づいて、弟はその背の皮を掴(つか)んで剣を尻から刺し通し、兄は瓜を引き裂くように引き裂いて殺してしまいます。
イヅモタケルを倒したときは、赤檮(いちい)の木で偽の太刀をこしらえて、「刀(たち)を易(か)へむ」と相手をだまして、互いの太刀を取り換えました。
イヅモタケルはそれが偽の太刀であるために、これを抜くことができず、戦うこともできないで、簡単にヤマトタケルに殺されてしまうのです。
こうして西の地を平らげて凱旋するあたりまでが、ヤマトタケルの元気のいい活躍ぶりです。
この後(のち)、倭(やまと)へ帰った彼が休む間もなく、さらに東の地を平定することを命じられるあたりから彼の悲劇が始まって、胸迫る結末を迎えることになります。
ヤマトタケルは、「天皇既(てんのうすで)に吾(あれ)死ねと思ほす所以(ゆえ)か」──天皇はまったく私が死んでしまえばいいと思っているのか──と言って嘆きます。
ヤマトタケルの後半の物語は、一生、戦い続けることだけを強いられて疲れはて、報いられることなく死んでいかなければならない、まさに悲劇の英雄というにふさわしい展開となっているのです。
ほかにも『古事記』には、楽しいお話、悲しいお話、心踊るお話など、さまざまなお話が収録されていて、たくさんの魅力的な神々や人間が登場します。
鵝(ひむし)──蛾──の皮を剥(は)いで着物にして、ガガイモの実の船でオホクニヌシのところにやってきた小さな小さなスクナビコナなどは、物語としてたいして語られているわけではありませんが、とても愛らしい素敵な神様です。
大胆な性の表現が随所にちりばめられているのも『古事記』の魅力の一つです。
「吾(あ)が身の成(な)り餘(あま)れる處(ところ)を以(も)ちて、汝(な)が身の成(な)り合はざる處(ところ)に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、國土(くに)を生み成さむと以為(おも)ふ」という、イザナキ、イザナミの結婚を物語る非常に直接的な言いまわし。
「神懸(かむがか)り為(し)て、胸乳(むなち)をかき出(い)で裳緒(もひも)を番登(ほと)に押(お)し垂(た)れき」という、天(あめ)の岩屋戸(いわやと)に隠れたアマテラスを誘い出すためにアメノウズメが踊った滑稽なストリップ。
性の営みがこんなにおおらかに気持ちよく描かれるのは、性がまだそのままに豊饒の証(あかし)であった時代の神話だからなのでしょう。