書籍データは持っている本のものです。現在最新のデータではありません。
『太字斜体』の見出しは書籍名、「太字」の見出しは単行本収録の作品名です。
「斜体」は引用です。
やっぱり感動!! |
昔々に読んで大感動した書が新訳で、それも、第1章が書き直された1989年の版を底本として刊行された……ということで、即、購入。
もっとも、読んでみたら、書き直されたところはプロローグ部分のほんの数ページ。
その当時の現代(1989年)というか、その当時の現代(1989年)に続く近未来を起点として物語を展開するための書き直しであるようだけど、2007年の今となっては、テクノロジーの状況が初版の刊行時点とまったく変わってしまっているため、かえって、整合性が壊れてしまったような気がする。
この物語の世界には、パソコンもインターネットも携帯電話もないのだから。
最初のまま、冷戦時代にこういう物語が始まったという形にしておいたほうが、あの時点で分岐した別の時間線での出来事として、現代(2007年)の目では、より自然な形でこの物語を楽しめたのでないだろうか。
初版が書かれたのが1953年、書き直されたのが1989年。
この後、1991年にソビエト連邦がなくなり、パソコンとインターネットと携帯電話が普及して、さらには2001年の「9.11」を経て新しい戦いの時代に突入して現代(2007年)へと至るわけで、その間の変化はまったく隔世の感がある。
(日本でデジタル方式の携帯電話サービスが始まったのが1988年、Windows95が1995年。)
ちなみに、巽孝之氏の解説によると、「2001年刊行のデルレイ版『幼年期の終わり』ではソ連崩壊をにらみ旧版のオープニングに戻」されているとのこと。
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部分部分の翻訳は、旧版(福島正美訳)のほうがいいなと思うところも新版(池田真紀子訳)のほうがいいなと思うところもあるけれど、全体としての情緒や感慨といった点では、旧版のほうが迫るものがあったように思う。
新版は、主語の省略のために、意味を取り辛いところが何カ所かあるのも引っかかった。
もっとも、「カレルレン」が「カレラン」になっているだけで違和感を覚えてしまうというように、わたしが単に、福島正美訳になじんでしまっているため、そう思えるだけなのかもしれない。
とはいえ、次のように、正反対の意味になっているところもあって、これは、どちらが正しい翻訳なんだろう?
「美貌よりも道心堅固であることで知られていた女がその相手だったが、」(旧版116ページ)
「相手は貞節よりも美貌で知られた女性だった。」(新版177ページ)
「しかし、オーバーロードの補給船は帰りにはおそらくからで帰るのだろうし、」(旧版161ページ)
「しかし、補給船はおそらく空っぽで地球に戻ってくる。」(新版247ページ)
補給船のほうは、論理的に考えれば旧版が正しいのではないかと思うのだけど、美貌のほうは新版なのかなぁ……。
なんだか、原書が欲しくなってしまった(>_<)
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久しぶりに読んだのだけど、内容そのものはちっとも古びておらず、感動はやっぱり深かった。
生命の生々流転のうちにいずれ現生人類が滅びることは仕方がないとわたしは思っているけれど、クラークがこの作品で丁寧に愛おしく描き出した地球の生命すべてを、そして、地球そのものをすらを滅ぼし去って、自らの後継者が進化の階梯を駆け上がっていくことに、たとえ、「外部からきた」(旧版)「外から来た」(新版)ものに共鳴したにせよ、「満たされた感じ、なにかがまっとうされた感じ」(旧版)「充足感、達成感」(新版)を抱き、オーバーロードを「気の毒に思」(旧版・新版)うジャンの思いにはやっぱり共感する事はできず、「だが、その奉仕のうちに、おのれの魂まで失うことは決してない」(旧版)「だが、たとえ隷属の身であっても、己の魂を失うことだけは決してない」(新版)というカレルレンの独白にこそ、深く深く共感して、涙する自分がある。
昔は気にかからなかった…‥というか気がつかなかった、英国のインド植民に関する見解とか、英語偏重とか、クラークの西欧人の目線に少々気になるところもあるけれど、「奇跡や神託に基づいた」(旧版)「奇跡やお告げをよりどころとしていた」(新版)宗教が「没落」(旧版)「破綻」(新版)した時、わずかに残ったのが「ある非常に浄化された仏教の一形態」(旧版)「純粋な形の仏教」(新版)だったなんていう、こちらの非西欧人としての自尊心をくすぐられるところもあって、そのあたりは、どっこいどっこいってところかな?
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近年の目がまわるようなテクノロジーの変化の慌ただしさに疲れてしまって老年期に向かいつつある身には、ここに描かれたユートピアはとっても居心地が良さそうに思われて、ちょっと夢見てしまいました(*^。^*)
これが人間の力だけによって達成されたものであり、オーバーロードが課したような制約がなければのことなんですけどネ。
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なお、創元文庫版の『地球幼年期の終わり』は持っておらず、チェックしていません。
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というところでまとめたつもりだったのだけど、『ゴールデン・エイジ』について書いていて気がついた。
もしかして、『幼年期の終り』ってのは、オーバーマインドというコンピュータ・クラスタに人類が計算資源として組み込まれるお話なの?
で、ノード間インターコネクトにあたるものがテレパシーとか超常能力といったもので、そのためのインターフェースを持たないオーバーロードは、だから、オーバーマインドに組み込まれることがない?
コンピュータ用語に関しては自信なし。
間違えて使っている言葉があるかも…‥です(^^ゞ
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その後、気になって、創元文庫版『地球幼年期の終わり』をチェックしてみました。
「カレルレン」は「カレレン」。
「オーバーロード」は「上主」で、「オーバーマイント」は「主上心」。
「カレレン」が「ぼく」とか「ぼくら」という自称でしゃべるのは、あまりにこどもっぽく軽すぎて、もの凄く違和感を感じてしまう(>_<)
ラシャヴェラクやストルムグレンの自称は「わたし」なのに……。
問題の箇所は、
「しかも相手は美人だが貞女とは決していえぬ、評判の女性。」(134ページ)
「しかし、補給船が手ぶらで帰るとすれば、」(186ページ)
でした。
ああ、そうだったのかぁ(⌒〜⌒) |
「超越」っていうのはつまり、千年に一度、人間を含む地球起源知性体のすべてが接続されて現れるコンピュータ・クラスタなわけネ。
で、この時代の人間ってのはそういう方向へと改変されているわけで、アイデンティティも肉体も保持してはいるけど、現生人類とはかなりかけ離れた存在になってしまっている……。
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主人公と一緒に訳のわからない状況を振り回されるこういうSFは大好きなので、眼前に次から次へと現れる目眩く未来のビジョンに圧倒されつつ、どこまで連れて行ってくれるんだろうとワクワクしながら楽しんだ。
主人公の夢が見事に飛翔したのが気持ちよかった……んだけど、すべての地球起源知性体を巻き込んで、地球起源知性体の地球起源知性体による地球起源知性体のためだけの宇宙の中で、一組のカップルだけはとにもかくにもとってもとっても幸せになりましたって、ちょっと待て、それでいいのか?
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限りなく版図を拡大していくことこそが高みに飛翔することであり、競わなければならない敵の存在こそがこれを促すのだという論理にはあんまり賛成できないんだよネ。
ゴールデン・エイジの世界が必ずしもユートピアだとは思えないけど、人類がその中に安住したまま停滞していてくれた方が、宇宙全体からすればはた迷惑にならなくていいんじゃないかとも思ったりする。
まあ、この小説の宇宙には知的生命体は地球人類起源のものしかいないみたいだし、敵っていっても、やっぱり地球起源知性体以外の何者でもないわけで……、なにがなんでもハッピーエンドにしてやるぞって、かなり強引な物語ではあるんだけど、これはこれで、まぁ、いいのかな?
何はともあれ、読み終えたとき、凄く気持ちよかったってことだけは確か(^^ゞ
『幼年期の終わり』をこれと前後して読んだためもあって、『ゴールデン・エイジ』と『幼年期の終わり』の相似にいろいろと思いを致すことになってしまった。
『ゴールデン・エイジ』の人間っていうのは、アイデンティティと肉体を保ったまま、オーバーマインドに取り込まれることが可能になった人類の姿みたいにも思えるし、宇宙への夢を馳せる主人公のファエトンは、『幼年期の終わり』のジャンの対応してるみたいにも思われる。
オーバーロードのように人類に制約を科する勧告者共同体(ホーテイター・カレッジ)という存在があって、ある種のユートピアの形が提示されている……。
この連関が意図的なものなのかそれとも無意識なのか、あるいはまったく全然関係ないものなのか……、著者の頭の中ではどうなっているのか、ちょっと知りたいものではある。
興奮!! |
これまでのわたしの理解では、当時、紫式部の仕える彰子と清少納言の仕える定子は天皇の寵を争うライバル関係にあり、二人の后は、天皇を自分のサロンに引きつけためにさまざまに競い合い、その中で紫式部と清少納言は文学的な戦力の要として召し抱えられた存在であり、また、『紫式部日記』に記された清少納言への痛烈な批判から鑑みられるように、清少納言と紫式部は仲が悪かった……というものだったのですが、この書によると、『枕草子』が書かれ始めた時、そして、紫式部が宮仕えを始めた時、既に定子の苦境は始まっており、『枕草子』は定子の死後、彰子全盛の時代にさらに書き継がれていた……、ということになると、これまでの私の理解は大幅に修正を迫られるわけで……。
成立年代がこの本の通りであるなら、どうして紫式部は、彰子をモデルにしたかのような弘徽殿の女御をそのライバルに配して、定子の境涯をモデルにしたかのような桐壺更衣の長子光源氏……ということはつまり、定子の長子敦康親王の、もしかしたらあり得たかもしれない姿を思わせる光源氏を主人公とした物語を書いたのか。
これだけの符合をまったく考えることなく、当時の人々がこの物語を受け止めたとは思えない。
ならば、この物語を、一条天皇や、また、定子を通して権力を得た道長は、どのような思いを持って読んだのか。
『源氏物語』には、一条天皇の彰子に寄せる思いを沈めるための、彰子に対する鎮魂の意が秘められているのだろうか?
どうして紫式部は、定子の死後10年もたってから、既に宮仕えをしてはいなかったであろう清少納言をああまで悪し様に言わなければならなかったのか。
『枕草子』を、定子亡きあとの清少納言が書き継いで、昔の定子の後宮の素晴らしさを喧伝したことは、果たして、定子の忘れ形見たる敦康親王のためには、良かったのか悪かったのか……。
1000年もの昔に生きた人々の思いは既に遙かな時のかなたではあるのだけれど、さまざまに考えさせられて、『源氏物語』の世界を深めてくれた1冊だった。
小説で読む諸星大二郎 |
前作、『キョウコのキョウは恐怖の恐』は、諸星大二郎特有のビジュアルによる味わいがない分暗さだけが際だって、あまり趣味に合わなかったのだけど、今度は、ビジュアル面がないかわりに心理面の描写で描ききるという、マンガとは違う小説の長所を生かした作品群で、楽しめた。
小説ではあの味わいは出せないのかな? と思っていた、特有のユーモア感覚も充分出ていたと思う。
特に、趣向としては同傾向の、「ここにはいないはずの彼女」と「同窓会の夜」は、おもしろく何度も読んだ。
芥川竜之介の「蜘蛛の糸」に、文部省が押しつけたがる方向に即した感想を持つことができないわたしにぴったりの形に語り直された「蜘蛛の糸は必ず切れる」も、なかなか心地良く読むことができた。
(註)『蜘蛛の糸』のところからは『ファンタジー ノベルズ ガイド』へのリンクを張ってあります。