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『太字斜体』の見出しは書籍名、「太字」の見出しは単行本収録の作品名です。
「斜体」は引用です。
精神の胎内世界? |
恐ろしくも魅惑的な異界を内包し、さまざまな異形の者たちが人間とひっそり共存する地、美奥を舞台に、様々な悩みや苦しみを抱えた人々の五つの連関する物語を紡いだ短編集。
* * *
異界を垣間見た人は、様々な選択をすることになる。
異界へ入って二度と戻らぬ者。
神となって人間世界を見守る者。
人ならぬ者へと転生し、この世界で、あるいは異界で次の生を生きる者……。
* * *
すべての苦を解いて涅槃に至る道を示されながら、現世のすべての苦しみを引き受けてこれからの長い生をまっとうすることを選んでこちら側へ戻ってくる少女の物語、「天化の宿」の、心地よい読後感が好き。
この一篇は、目に見えるところにグロテスクな屍が転がることなく物語が展開してくれたのも、わたしには良かった。
もっとも、『草祭』は、生と死と再生をテーマにした物語群なので、作品中にたくさんの屍が転がるのもまた、宜(むべ)なるかなということなのかもしれないが。
* * *
天狗にも狸にも優しい鬼にも見える、天然パーマ、太鼓腹の“親分”。
不思議な双子、コウヘイとタッペイ。
異界に“クトキの館”を構える、双子の“おかあ”。
尾根崎のショウちゃんこと、屋根猩々のショウタ……。
悩み苦しむ人間たちを見守る、優しい異形の者たちが魅力的。
この物語に描き出された美奥の異形の者たちは、人間のような醜悪な精神を有することなく、まっすぐな目で世界を見つめて、そこに在るように思われる。
* * *
作者が現出してみせる美奥の異界は、夢と現(うつつ)のあわいでいつまでもたゆたっていたいと思わせる、人間存在の根源に連なるかのような郷愁に満ちた魅惑的な世界なのだが、そこにはまた、ごく当たり前に、グロテスクな屍が転がり、一番避けたい自らの闇の部分が確とした形を得て眼前に現われる。
美奥の異界が恐ろしくも魅惑的なのは、ここでは、自らを偽ることができず、また、偽る必要もないからなのかもしれない。
自らの光の部分も闇の部分もすべてを肯定することのできる者のみを受け入れて癒し、そして、解放してくれる……、美奥の異界は居心地よくも醜怪な、精神の胎内世界なのだろう。
* * *
『草祭』が気に入ったので、ホラーが苦手なために避けていた、恒川光太郎の他の作品も読んでみた。
通底するのは、わたしたちの世界と混在する異界を垣間見た人々の物語、というところかな?
猟奇殺人者が必ずといっていいほど登場するのが、わたしの趣味ではないところ。
現実世界がこうなのだから仕方がないのかもしれないけれど、小説世界でまで、そういう連中とつきあうのは嫌だなぁと思ってしまう、わたしなのでした(^^ゞ
「風の古道」(『夜市』所収)と「神家没落」(『秋の牢獄』所収)の異界は結構……というより、凄く好みなのだけど、やっぱり、猟奇殺人者が……(__;)
「夜市」(『夜市』所収)はお話としては感動的だし、猟奇殺人者も登場しないので許容範囲の内なのだけど、ここに描かれた異界は、わたしにとって、そこにいつまでもとどまりたいと思えるほどには魅力的でなかった。
『雷の季節の終わりに』は、猟奇殺人者は出てくるわ、異界そのものも趣味ではないわで……、ダメだった(__;)
というわけで、今のところ、わたしにとっての恒川光太郎の最高作は『草祭』ということになるようだ。
古くさいけど…… |
『ハリダンの紋章』の著者による作品だということで、ちょっと期待して読んでみた。
2005年に発表された、1万年後の未来を描く話にしては、クローンもなければモバイル機器の発想もないなど、テクノロジーがずいぶん古くさいのが気になったが、その古くささと呼応するように、古典SFを読んでいるような安心感と感動があって、こういうのも悪くない……かもだ(^^ゞ
都市の空気は自由にする? |
これを読んで真っ先に思ったのが、「都市の空気は自由にする」というドイツの諺だった。
作品に直接この諺が出てくることはないし、ヨーロッパ中世期におけるこの諺の原義も、現代日本のわたしたちがこの言葉に感じるものとは違うのだが、この言葉が連想させる都市というもののの理想型にまじめにあこがれる男が、超自然的存在の助けを得てこれを実現していく物語……と、わたしにはこの物語が読めたのだ。
せっかくこれだけ調べこんでいるのだから、超自然的存在が介在しない、完全なヨーロッパ時代小説として読んでみたかったようにも思うのだが、それでは楽しくすっきり読めるこの夢物語は成立しなかっただろうから、仕方がないのかもしれない。
幻想の女を生きるということ |
女を盗むという、男の一方的なロマンチシズムが女にとって何を意味するか、それは実に、男による女の拉致に他ならないのではないか、という視点のもとに、『源氏物語』、『伊勢物語』、『大和物語』、『更級日記』、『うつほ物語』、『堤中納言物語』などの平安物語文学に見られる略奪婚の物語を検証する書。
著者は、例えば、平安物語文学の略奪婚の物語と新潟の女性監禁事件との類似を指摘して、教育現場において、略奪婚の物語を、「男が暴力を振るい、女を拉致したとしても、結局女は男を愛するようになる」という、「暴力を愛情に置き換えて肯定する物語」として読ませるよう誘導することにより、「暴力を肯定する教材」として、「保守的な性の枠組みを語るための格好の素材として利用」していることに異議を唱え、男の勘違いが女をいかに苦しませることになるかを丁寧に解き明かすなど、従来、男の視点で、男に都合よく解釈されてきたこうした物語群を、徹底して女の視点から読み直してみせる。
* * *
加害者である光源氏の気に入るように振る舞うことによってしか生存を許されなかった、“拉致監禁強姦”の被害者である『源氏物語』の紫の上の境涯が痛ましい。
光源氏は、「母は死に、父は引き取ろうとしない」幼い若紫を、「きわめて計算高く、巧妙に仕組」んで略奪して自らの女とし、しかも、「正式な結婚は望」まず、彼女に正妻の座を与えることもない。
光源氏最愛の人といわれる紫の上も、所詮は、光源氏が思うようにできる女の一人でしかないのである。
光源氏が正妻としたのは、強力な後ろ盾を持ち、その結婚に政略的な意味のある、葵の上と女三宮だった。
しかし、「圧倒的な父家の力に支えられ、それゆえ夫から重く扱われ」て紫の上を煩悶させた女三宮は結局、光源氏の意に沿う女にはならず、「父の力で出家を果たし」て、光源氏を取り巻く愛の修羅からさっさと逃げ出してしまう。
紫の上は、女三宮の降家によって自らが置かれた立場を改めてはっきり自覚したのだろう。
自らを諦めてしまった紫の上は心を閉ざし、ただ、「出家によって解放され、自らと向き合う生活を希求」する。
しかし、光源氏は、紫の上の最後の願いを許さず、彼女は、死の床にあってすら光源氏の幻想の女を演じたまま、生涯を閉じることになる。
『源氏物語』に「走って出てきた少女」(橋本 治 著『源氏供養』)は、光源氏に略奪されて後(のち)、終生、自らの足で自由に歩くことを許されなかったのだ。
六条院の女たちに求められているのは、自分が思い描く自己像の実現ではなく、光源氏が要求する女性像の実現なのである。それをよく知る紫の上は、鏡に映し出された自己像ではなく、光源氏という鏡によって照り返された自己像に同一化しようとする。こうした選択は、当然のこととして、演じられた自己と、心に押し隠された自己像との間に齟齬を生じさせることにもなるが、その調整がうまくできた者だけが、光源氏のそばで暮らすことができるのである。
* * *
ここに著者は、「女の性役割を身につけ、女になること」で「喜びとともに苦しみを味わい尽くす」紫の上の対比的存在として、「雀を解き放つ行為」によって「閉ざされた空間に女を囲い込む思考」を拒絶し、「性役割の学習の場」である「雛遊びの家」を壊して「男女の役割を学習」することを拒み、「荒ぶる少女の面影を残したまま物語の舞台から消える」、幼い紫の上の遊び相手である女童(めのわらわ)の犬君(いぬき)に光を当てる。
これまでわたしは、犬君を乱暴者で困った端役の少女という印象でしか捕らえていなかったのだが、この指摘は、非常に胸に落ちるものだった。
* * *
当時の常識からすればとうに恋の現役を退いているべき年齢でありながら、色好みをやめず、女であり続けようとする源典侍(げんのないしのすけ)。
今流行(はや)りの価値観に従うことなく自らが是と考える古い価値観の中におのれを固く侍して、男に媚びることなく、高貴な身分でありながらただ貧窮に耐える、『源氏物語』きっての醜女、末摘花(すえつむはな)。
貴族社会に育たなかったがために、教養もなく、内大臣の姫に相応しい振る舞いができずにその真心が空回りする、けれども、いつでも前向きで元気いっぱいな近江の君。
嫉妬の心を隠すことができず、新しい女の元へ出かけようとする夫に火取りの灰を浴びせ、妻としての役割を放棄して娘を連れて実家へ帰ってしまう髭黒大将の北の方。
彼女たちは、当時の貴族社会の規範にかなわぬ存在であるがために、困った女として、あるいは、からかいや蔑みの対象として描かれているけれど、当時の貴族社会の規範のなかで、期待される女性像と本来の自己の軋轢に苦悩して生きる『源氏物語』の他の女たちに比べると、おのれを偽らない分、遙かに自由で幸せだったのかもしれない。
* * *
平安時代の貴族社会の規範にかなわぬ存在の筆頭といえば、なんといっても、『堤中納言物語』の“虫愛づる姫君”だろう。
わたしの大好きな“虫愛づる姫君”を、著者は、「「女になること」に抵抗する少女の過剰性は、やがて「虫愛づる姫君」という後継者に引き継がれていくことになるだろう」として、『源氏物語』の犬君に連なる女と位置づける。
けれども、「表層にとらわれるな。本質を見よ」と主張して、当時の社会状況の中にあっては精一杯に自由に振る舞っているようにわたしには見えるこの姫君の行動が、実は、「女性嫌悪的な枠組み」を持つ当時の仏教的価値観に捕らわれて、「変成男子(へんじょうなんし)」、即ち、「男に変じて成仏」することを目指すゆえのものであったのだという指摘は、悲しい。
言動の中に往生への希求を滲ませる姫君が、「これが、成らむさまを見む」と虫が蝶に変態する様に執着し、観察するのも、あるいは化粧をせず、脱女性化・男性化するのも、すべては姫君なりの「変成男子」の実践であると理解される。
「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という、わたしにとっては不思議でしかたのない姫君の言葉も、この枠組みを持って読むとき、納得できるものになる。
姫君にとって、鬼と女とは同類項で括られるべき存在である。虫と鬼、そして女とは、いずれも排除されるべき互換可能な三項なのである。
なんだか、暗然としてしまう。
それでも、わたしは夢想する。
戯れに姫君に恋を仕掛ける右馬佐が、姫君をそのありのままの姿で受け入れて、ハッピーエンドの結末になってくれたらどんなに嬉しいことだろう……と。
姫君のその後については、「二の巻にあるべし」として描かれることがなかったから、想像の入る余地はある。
男のような格好をしていると聞く姫君を垣間見に行くにあたって、わざわざ女装するような右馬佐は、姫君ほどではないかもしれないが、やはり、変わった男ではあるのだろう。
だとしたら、ふたりの恋が、当時の常識を逸脱して、ありのままの姿をお互いに認め合うことで成り立つこともまた、あり得ぬことではないだろう。
* * *
けれども、光源氏を取り巻く女たちには、そのような想像の入る余地はない。
光源氏は、女に対して、「自分が思い描く自己像の実現ではなく、光源氏が要求する女性像の実現」を要求する男なのだから。
* * *
光源氏は末摘花を引き取って生涯面倒をみるのだが、引き取ったあとの彼女を女としては扱わない。
そして、そういう女なのだから仕方がないと、彼女が光源氏の幻想の女にはなり得ないのを承知の上で、眉をひそめ、からかったり意地悪をしたりする。
しかし、光源氏と末摘花の価値観はあまりにも違うため、そのからかいや意地悪が末摘花に通じることはなく、光源氏の中で空回りしているだけなのではないかと、わたしには思われる。
末摘花にしてみれば、光源氏の庇護の元、女の喜びもない代わりに苦悩もない生活に自足してして、それで充分幸せだったのではないのだろうか。
そしてそれは、今際(いまわ)の際まで紫の上が望んで得られなかった境涯なのである。
光源氏の美意識にかなわず、また、自らの価値観を信じて、光源氏の意に沿うべく努めることもしない末摘花は、それ故に、光源氏の幻想の女であることを早々に免れえたのだろう。
末摘花とは逆に、光源氏の幻想の女であり続けることで、末摘花と同じく光源氏の庇護を受けながら、光源氏を取り巻く煩雑な愛の世界から離れて、心静かに暮らす境涯を得たのが、空蝉の尼だろう。
彼女もまた、末摘花ほどではないにしても美しいとはいえない女なのだが、その美意識は光源氏の意にかなうものであり、光源氏からは軽々しく扱われる身分の女でありながらも高い矜恃を持ってその愛を拒むことで、光源氏の心の内に幻想の女のままで住み続けることになる。
光源氏は、後(のち)に、行き場を失った空蝉を引き取るのだが、この時すでに尼になっていた空蝉は、もはや光源氏の女にはなり得ない。
光源氏の幻想の女として完成してしまった空蝉は、それ以上、「光源氏が要求する女性像の実現」を求められることはない。
末摘花と空蝉は、「光源氏が要求する女性像の実現」を求められる「六条院の女」ではなく、二条東院の女たちなのだ。
* * *
『源氏物語』は、男たちの幻想の女としてさんざんに翻弄された「宇治十帖」最後のヒロイン浮舟が、男たちの幻想の女であることをやめて自らの足で立って歩き出し、幻想の女を失って途方に暮れた「宇治十帖」の主人公である薫が、見当違いのことを考えるただの間抜けな男に過ぎないことを露呈して、その巻を閉じることになる。
あたかも、男には女の心はわからない、女が男の幻想につきあうことをやめてしまえば、取り残された男なんてこんなものでしかないのだとでもいうように。
* * *
『源氏物語』は、まだまだ深い。
わたしにとっての『源氏物語』は、まだ始まってすらいないのかもしれない……。
* * *
『男が女を盗む話』についての雑記というより、『男が女を盗む話』によって触発された“『源氏物語』考”になってしまったみたいです(^^ゞ
『源氏』千年の色彩がいま甦る ←(帯の惹句) |
『源氏物語』は「私にとっては、日本の細やかに移ろう自然を映したその色彩を往事の人びとがどのように表現し、楽しんでいったかという物語なのである」という、江戸時代から続く染屋「染司よしおか」の五代目当主である著者が、『源氏物語』の色の世界を、「五十四帖の『物語』のなかに描かれた色彩豊かな条を私なりに選び出して、それを先学の研究にも拠りながら、自分なりの考えや印象を加えて、すべて伝統的な植物染の技法にのっとって表現した」という書。
この書はこうして、糸の加工法から染め、織りにまでこだわって再現した布を使って、『源氏物語』の襲の色目や衣の重なりの実際を見せてくれるのだが、『源氏物語』五十四帖の各帖ごとに分かたれた各章には、色彩にこと寄せて簡単なあらすじも付加されて、『源氏物語』自体の入門書としても読むことができるようになっている。
「玉蔓」衣配(きぬくば)りの条に見られるように、登場人物の衣装によってその人柄や置かれた状況、その時の気持ちまでをも描き出してみせる『源氏物語』を味わう上で、こうした衣の色を想起することは非常に重要な要素であるのだが、ただ紙に色を印刷しただけの書では、なかなかそのイメージをつかむことが難しく、隔靴掻痒の感が否めない。
その点、当時の布の状態をダイレクトに見せてくれるこの本は、本当にありがたく、手頃な値段で入手できたのも嬉しかった。
* * *
生絹(すずし)という透ける絹を重ねることで現れる美しい襲の色目は、夢の世界を垣間見るように美しく、また、天然の植物染料で染めた絹は、現在の化学染料で染めた布では考えられないような色同士を重ねても、しっとりと落ち着いて、違和感を感じさせることがない。
この、夢のような色彩の乱舞する優美な世界の中に閉じ込められて、紫の上はどのように性愛の地獄を見ていたのだろう。
そして、このように贅を尽くして優雅に装う、ごく少数の貴族社会の外に、僅かな襤褸を身に纏うことも難しい、どれほどの数の貧しい民が存在したのだろう……。
* * *
今までわたしにとって、『源氏物語』の色を想うための手がかりになる第一の書は、 『「源氏物語」の色辞典』と同様、当時の布を再現することで『源氏物語』の色を見せてくれる『別冊 太陽 源氏物語の色』だった。
この書における衣の再現は、『「源氏物語」の色辞典』の著者吉岡幸雄氏の父君である故吉岡常雄氏の仕事であり、もちろんお二人の仕事にはつながりがあるのだろうけれど、同じ場面を扱った条を比べてみると、それぞれに違いが見られて面白い。
もちろん、どちらも印刷による色なので、実見の色とはまた違うのだろうけれど、常雄氏の色は落ち着いて渋く、幸雄氏の色はけざやかで若々しく思われる。
また、比較して、常雄氏の色は黄色みが強く出ているようだ。
解釈の違いだけでなく、染める手の違いによっても、同じとされる色にも微妙な違いが出るのだろう。
そういえば、衣配りの条には、紫の上が染色の上手であることを次のように書いていて、平安の昔も、同じ言葉で呼ばれる色であっても、さまざまに違いがあったであろうことを思わせる。
かかる筋はた、いとすぐれて、世になき色あひ、匂ひを染めつけたまへば、ありがたしと思ひきこえたまふ
鹿肉〜〜っp(>_<)q |
アルバイト先で出会った猟師を先達に、京の地でワナ猟師になった青年が、ワナ猟の実際から、獲物の解体、調理、皮鞣し、山菜料理など、その猟師としての日常を、写真を添えて具体的に紹介した書。
人里離れた山奥に暮らす猟師の日常……とでも書きたくなってしまうような内容なのだが、著者が生活しているのは、裏がそのまま獲物の獲れる山になっているとはいえ、10分も歩けばコンビニもあり、ADSLも来ている、「街の中の無人島のような」お堂だということなので、そういうわけにはいきません。
しかし、京都にはこんなところがあるんだねぇ。
おまけに、著者の勤めているのは、社員に猟師が何人もいて、会社の駐車場で獲物の解体もできる運送屋さん……。
京都ってなんなんだ?
* * *
それにしても……、鹿肉、もっと流通して欲しいよぉ!!
わたしは鹿肉が大好きなんです。
淡泊でクセもないし、柔らかい。
滅多に食べられないし、ここ数年は、肝炎――肝炎については、この本でも触れられている――が怖くて鹿刺は避けているけど、刺身もステーキも好きっ!!
鹿はたくさん獲れているのに、需要が少なく、販売ルートもほとんどないとか……。
鹿肉は、ヨーロッパなんかじゃ、高級食材として扱われてるってのに(`ヘ´)
プンプン。
わたしは、テレビで、鹿の駆除のニュースなんかを見るたびに、その鹿、肉屋に出してくれ〜〜っ、と、叫んでます。
流通して採算が取れるようになれば、鹿の数の調整にも益するし……、いいと思うんだけどなぁ。
そして、猪……。
わたしの数少ない猪肉体験では、猪肉は、臭くて脂っぽくて固かった。
けれども、鹿も猪もたくさん食べている著者によると、鹿より猪のほうが断然おいしいらしい。
野生の猪をきちんと処理したものはおいしいけれど、家畜用の配合飼料で育てた猪はダメだということなので、わたしが食べたのは、そういう猪だったのかもしれません。
おいしい猪肉、食べてみたいp(>_<)q
男と女と…… |
30歳まで女性として暮らしてきたが、染色体検査で両性具有(インター・セックス)であることが判明。男性化したり女性化したりする自分の体質の謎が解け、縮胸手術を受ける。以後、男性として創作活動を続ける。
というマンガ家が自らを語るマンガと文章の書。
書店の店頭で『性別が、ない!』の第5巻を見つけて、このマンガとマンガ家の存在をはじめて認識。
半陰陽という、ほとんど未知の存在のことを知りたくて、この6冊を一気に読んでみた。
* * *
もちろんこれは、新井祥というひとりの人の目から見た半陰陽の世界であって、他の半陰陽の人の目から見たその世界はまた違っているのだろうけれど、それでも、今までわたしにとって抽象的なイメージの世界にしかいなかった半陰陽という存在が、新井祥という一人の半陰陽者が、こうして自らをさらけ出してくれたことで、わたし自身の性の問題ともシンクロする、身近な存在として、立ち現われてきたように思われる。
* * *
『性別が、ない!』第3巻で、著者は、「セクシャル・マイノリティに対する男女の違いはかなり明確」で、女のほうが許容度が高く男は低い、という旨を4コマで描いているけれど、これは、女の多くが、自分の性に負わされた役割を生きることと人間として生きることの間に違和や生きづらさを感じているため、そこに自らを解放する鍵があることを感じ取って、様々な性のあり方に理解を示すのに対して、男の多くは、男の役割を負って生きることに違和や生きづらさを感じておらず、居心地の良い現在の状況を危うくし、自らのアイデンティティを脅かすものとして、性の多様性に強い嫌悪を示すのではないかとわたしは思うのだが、どうなのだろう。
わたし自身は、多分、はっきり女という性に属する存在で、男になりたいとか、女の身体に違和感があるといったことはないのだけれど、社会の中で女として生きていくことに、うまく適合できているとは言い難い。
自覚的にそれを忌避した母から、一切、“女だから”とか“女らしく”とかいった言葉を聞かずに育ったためもあってか、わたしはいまだに、自分が女であることの社会的な面での自覚が薄いらしく、他者との関わりの中で“女”としての受け答えや行動を期待されると、戸惑ってしまうことがままあるのだ。
迷惑この上ないことに、見かけと思考様式のギャップに怒り出してしまう男も結構いたりする。
ちょっと見、従順でおとなしいだけの女に見えるんだろうなぁ……(--;)
* * *
『性別が、ない!』第2巻の巻末対談で、著者のアシスタントである少女マンガ体型の超美形(だそうです)のこう君が次のように発言しているのは、これこそ、男の、そして、男社会の感覚だと思う。
それにしても先生の精神はかなりS的ですよね。恋人を主人とかダンナとか舌かんでも呼びたくないとか、どSじゃないとなかなか思わない感覚だと思いますよ。
これに対して、著者は次のように返す。
そうか! それを忘れていた! その価値観だ! 世の中、男と女じゃなくてSとMにわければいいんだ。
おいおい、そこで納得しちゃいかんだろう。
SとかMとかそういう問題ではなくて、これは人間の尊厳の問題なのに、男たちは……、そして、男社会の価値観にどっぷり浸かって疑問を持たない女たち(とその他諸々の人たちも)は、そんな風には思わないのだろうか。
けれども、第2巻のあとで刊行された『『性別が、ない!』ということ』で、著者は改めて次のように書いている。
俺が女体時代から嫌いな言葉に「嫁と旦那」というのがある。
嫁は漢字の仕組みが気にくわないがまだいい。旦那というのが嫌だ。「主人」も嫌。
こんな体質なのに、いまだに主婦の読者から
「旦那様のために料理していた祥先生なら、自炊はお手の物でしょう?」
というメールがくるが、笑えない。
―略―
旦那様や主人というのは「夫=マスター」だと認めた言葉だ。
女性は自らそう表現することで、女の地位をおとしめていることに気づかないんだろうか?
それとも主のもとに仕えるのが好きな人が多いのか? そういうプレイか? ん?
――『『性別が、ない!』ということ』
そうそう、そうなんだよ〜〜っp(>_<)q
* * *
著者が、女に近い形の半陰陽でありながら男の外見で生きることを選んだということは、やはり、世間的には男と認識されて生きるほうが、女で生きるよりも生きやすいということになるのだろうか。
少なくても、現代日本の社会に、男の体力と生理のない身体を持って、男として生きるのは、とても楽だろうなと、わたしは思う。
もともと、なぜ女だけ胸を隠すのかわからなかった
まわりが引かないよう気をつかって隠してやっていた昔…
もし男女平等なら 染色体がどうであろうと たぶん手術しなかったな オレ…
――『性別が、ない!』第2巻
オレとしては…マンガにも描いたけど、女の人も胸丸出しで海パン一丁で…とかの世の中になったらいいとは思ってるんだけど、今の時代だとオレは「男」であるほうが向いてると思うから、それに合わせた感じかな。もっと未来…羞恥心とかの概念が男女変わらない時代に生まれてたら、たとえ半陰陽でも女で通したと思う。戸籍もせっかく女なんだし。
――『性別が、ない!』第2巻 巻末対談
ここらへん、凄く納得できてしまう。
「夕すずみ、よくぞ男に生まれけり」(宝井其角)という川柳があるけれど、女だって、平気で裸をさらせる世の中だったらいいなと、わたしは思う。
それでも、夏の服装については、昨今、女のほうが涼しい格好をしている感もあるけれど、そういう格好をしている女に勝手に欲情しちゃったあげく、「男の下半身には理性がない」のだから女のくせにそんな格好するのが悪いなんぞと、「男は理性的で、女は感情的」と女を見下して威張っている男が平気で口にするのは、どう考えても理性的な思考のなせることとは思えない。
それから生理……。
だいたい女は生理があるだけでもたいへんな負担なのに、体調が最悪なその時期に、生理であること自体を隠すべく様々に気を遣い、気を張り詰めていなければならないわけで、そのことのストレスは、多分、男の身体を持って生まれた者には想像すらできないことだろう。
『性別が、ない!』第2巻には、女子から男子に扱いを変えてもらったという真性半陰陽の高校生の、「生理の時は男子の体育きついし〜」という声を紹介した4コマがあるけれど、これなど、決して笑い事ではなくて、どれほど大変なことだろうと思う。
* * *
性同一性障害者は、多くの人たちが公の場に姿を現わして自らをを語ることにより、世間的にもかなりの認知を得るに至っているように思われるのだが、公の場で自らを語る半陰陽者はまだほとんどいなくて、認知も遅れている。
性同一性障害者の場合、自分がどちらの性になりたいというはっきりした主張があるため自らを語りやすいのに対して、半陰陽者の場合は、自らがどうしていいかわからないまま、どちらでもあり、どちらでもないという状態にあるため、他者に語る以前に、自らの中で戸惑ってしまって、声を出すに至れないでいるのかもしれない。
* * *
それにしても、
悲しかったことをペラペラしゃべるタイプは男でも女でもあまり好きじゃない
そういうのって情けないし超ダセー!!
――『性別が、ない!』第2巻
という美意識に則ってか著者は描かないでいるけれど、30歳になるまで自分は女と信じて生きてきて、突然、半陰陽であることを知った、その衝撃はどれほどのものであっただろう。
生まれる前に死んだ兄は、実は、自分と同じ染色体異常ではなかったのかと考える著者の言葉は重い。
染色体異常の子は多くの場合、生まれる前に死ぬ。だから数が少ない。
生まれることができても、心臓の弁がないなど何かの疾患を持つ場合も多い。
男の子に近い方が女の子より生命体としては弱いから、「兄」は死んでしまったが、女の子に近い状態で生まれた俺は死なないですんだのかも知れない。
「五体満足で生まれられただけでも、お母さんに感謝しなきゃいけないよ」
と、染色体検査の結果が出たあとで、病院の医者に言われた。
俺は精神的にほとほと疲れ果てることが起きたりすると、いつもそれを思い出すようにしている。
アタマにくるとすぐ「死ね!」などとツッコミのつもりで書いてしまう俺だけど、ほんとのところ、人間は生きていくことが何より大事なのだ、と思う。
――『『性別が、ない!』ということ』
* * *
『性別が、ない!』の収録作は、必ずしも発表順に並んでいるわけではないのでわかりづらいのだが、わたしにはどうも、あとに描かれたものほど、露悪的なものが減り、抑制のきいた、読者の存在を念頭に置いたものになっているように思われる。
最初は「嫌がる物は勝手に嫌がれ!」とばかりにヤケクソテンションだったんだけど…
描きすすめているうちに…
俺なんかのマンガで元気づけられる人もけっこういるんだなあと実感して…
テキトーに投げっぱらしじゃなくて
ためになるものを描こうと思うようになったな
――『性別が、ない!』第4巻
もしかすると、このマンガを描くこと自体が、著者が痛手から立ち直るための助けとなったのかも……などと考えて、ちょっとうるうるしてしまったりするのだけれど、雄々しく――この言葉も微妙――逞しく生きようとする著者にとっては、そんなわたしの感傷などは余計なお世話に過ぎないことだろう。
何の役にも立たないしネ(^^ゞ
* * *
中学時代は、まさか自分がオカシナ体質の持ち主だなんて思いもしないでいた。
―略―
可愛い格好をして男の子と遊園地に行くことや、クラスの女子と服やアクセサリーをショッピングしてまわることなど、「普通のこと」の何もかもが楽しく、少女的生活を謳歌していた。
「普通」に価値観がすべて浸食されきっている時期は、とても楽だ。雑誌に載っている服を着て、TVの芸能人をすてきだなあと思い、異性と仲良くするようつとめていれば幸せなんだから。
男性ホルモンや女性ホルモンの増減によって身体も考え方も価値観も男性化したり女性化したりしながら、それでも、女子高に通い、男と結婚もして、いわゆる普通といわれる男性観、女性観の中で生きてきた著者は、もともと、セクシャル・マイノリティの専門家でもなんでもなくて、けれども、30歳を過ぎて自らが半陰陽であることを知ってから、否応もなく、セクシャル・マイノリティの問題に深く関わらざるを得なくなってしまったのだろう。
巻を進めるに従って、著者自身が、そうしたことに対しての考えを深めていっているようにも読みとれる。
* * *
性同一性障害で戸籍の性別を変えた人が最近増えつつあるが、病気の時大丈夫なのだろうか。
もしも事故等で、本人が説明できない状態で手術、となったらどうなんだろう。
―略―
ましてや股間の手術も完了している人なら、開腹してからアラびっくり! だろう。
だ、大丈夫なのか!? それって……。
――『『性別が、ない!』ということ』
確かに、近年になってようやく導入されるようになった性差医療の観点からも問題がありそうだ。
生命を維持するためのホルモン療法が欠かせない半陰陽者の人もいるだろう。
同性婚を認めて戸籍は内臓で判断、なら性同一障害だけじゃなくいろんな人たちが幸せになれるかも……あ、でもそしたらそれこそインターセックスで卵巣も精巣もあるって人は、どっちにわけたらいいかわからなくなるか。んー。
――『『性別が、ない!』ということ』
生まれてすぐに性別がはっきりしない場合は戸籍上も性別留保ってのができるようだし、ならばいっそ、はっきりした性別欄がなくて続柄によって性別が記され
ているだけの戸籍では、性別を明記する言葉をすっぱりなくしてしまえばいいのに、と、わたしなどは思うのだが、どうだろう。
そもそも、戸籍制度自体が様々な問題の温床になっていることを考えると、この制度自体を抜本的に考え直す必要があるのかもしれない。
もっとも、この問題に限らず、半陰陽をはじめとするセクシャル・マイノリティに関しては、まだまだ知らないことばかりなので、断定的に、こうすればいいのになどと軽々に言い切ってしまうことは、今のわたしにはまだできない。
半陰陽と性同一性障害とホモ・セクシャルとその他諸々――わたしのまだ知らないものも含めて――を、セクシャル・マイノリティとしてひとまとめにしてしまっていいものかどうかもまだわからない。
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とにもかくにも、男とか女とかいう以前に、すべての人が、人間として、自然にあるがままの姿で生きていくことができるようになったなら、どれほど生きやすい世の中になるだろう、とは、思う。
既得権益にしがみつきたい男にとっても、今のまま、“男らしさ”や“男のくせに”といった言葉に縛られて生きるのは、やはり、窮屈なのではないのだろうか。
『源氏物語』の時代と同様、わたしたちはいまだに、社会的な規範が要求する幻想の女や幻想の男を生きている。