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“蓼食う虫”の本棚の奥から
037号(2009年4月10日)


SENNEN NO SHIJIMA IHON GENJI-MONOGATARI by Moriya Akiko

千年の黙 異本源氏物語

森谷明子 著

ちょっと現代人すぎるかな?

平安時代の人間であるはずの登場人物たちがちょっと現代人すぎるところに違和感を覚えたが、『源氏物語』の成立に関する経緯(いきさつ)――もちろん、虚実ないまぜなんだけど――など、非常にわかりやすく整理されて描かれていて、たいへんおもしろく読むことができた。

「正面切って反対を唱えなくても、自分の意思を通す道は必ずある。わたくしは何年もかけてそれを学びました」と語る彰子。
彰子の助力を得て窮状を切り抜け、鮮やかに復讐を遂げる紫式部。

男社会のなかで翻弄されながらも、凛として立とうとする紫式部や彰子の姿が心地よい。

紫式部はもちろん、実際の彰子もまた、後に、父道長の意に抗しても定子の血筋を皇統にに残すべく尽力するなど、自らの判断を持って、しっかりとこの時代を生きたであろうことが伺われる人物なのである。

*  *  *

主人公である、紫式部の女童(めのわらわ)である“あてき”の莫迦さ加減に最初はいらいらしてながら読んでいたのたのが、あてきが成長してその時代の常識をわきまえるようになっていくにつれて気にならなくなってきてやっと気がついた。
平安時代に馴染みのない読者のために、読者と同様、この時代に無知な、まだこどものあてきに物語を語らせることで、読者もこの時代になじんでいけるようにするという、これは巧みな仕掛けなのだろう。

*  *  *

著者は、相当この時代を調べこんでいるらしく、さまざまな場面に史実(と思われているもの)との対応関係が見られて、そういう意味でも、たいへんおもしろく、奥が深い。
たぶん、わたしなどの気がつかないところに、もっともっと、さまざまな仕掛けがあるのだろう。

著者の創作による、「雲隠」(巻名のみあって、本文のない帖)の文章も、いかにも『源氏物語』らしく雅なものに仕上がっていて、気持ちよい。。

*  *  *

それでも、いくつか「あれれ?」と思うところもなきにしもあらずで、たとえば、「定子」、「彰子」、「元子」、「妍子」といった名前にそれぞれ、「ていし」、「しょうし」、「げんし」、「けんし」とルビがついているけれど、当時、これらの名前が実際にどのように読まれていたか定かでないとはいえ、こうした読み方をしなかったことだけは確かであるらしい。
これは小説なのだから、自由に、それらしい読みを当ててもよかったのではないのだろうか。

また、実名敬避の風の強いこの時代に、格下の女性たちが最上層に位置する女性たちをその実名で名指すことなどあり得ない、特に、面と向かって当人に実名で呼びかけるなんてことはあり得ない……と思う。

2003年10月15日発行 1,800円 東京創元社
『源氏物語』 GENJI-MONOGATARI by Murasaki Shikibu 紫式部 著 1010年頃成立?

GENJI-MONOGATARI by Oono Susumu

源氏物語

大野 晋 著

KAGAYAKU HI-NO-MIYA by Maruya Saiichi

輝く日の宮

丸谷才一 著

HIKARU GENJI NO MONOGATARI by Oono Susumu & Maruya Saiichi

光る源氏の物語(上・下)

大野 晋・丸谷才一 著

『源氏物語』とボーヴォワール?

『千年の黙』読了後、同じ頃に上梓されて、同じ題材を扱った丸谷才一の『輝く日の宮』も読んだほうがいいかなぁ、と思ったのだが、しかし、その前に予習したほうがいいだろうと、大野晋の『源氏物語』と大野晋と丸谷才一の対談集である『光る源氏の物語』も買って、大野晋『源氏物語』『輝く日の宮』『光る源氏の物語』の順で読んだ。

(註)紛らわしいので大野晋の『源氏物語』を以後『源氏物語(大野晋)』と表記します。

結果、『輝く日の宮』に関しては、登場人物に全然感情移入できなくて、どうにも入り込めなかった。
古くさい男性優位主義の臭いが芬々で、不愉快ですらある。
丸谷才一はこれが初読なのだが、どうも、わたしには向かないようだ。

また、『光る源氏の物語』には、丸谷才一による『源氏物語』の現代語訳が差し挟まれて物語の理解を助けてくれるのだが、この訳文で、女性の一人称が「あたし」「あたくし」とされているのが、どうにも品が悪く感じられて嫌だった。
近江の君あたりの一人称としてなら、「あたし」とか「あたくし」というのもありと思うのだが……。

*  *  *

大野晋と森谷明子は『源氏物語』の成立には、時の権力者である藤原道長が大きく関わっており、紫式部は、藤原道長の懐にはいることによってしか『源氏物語』を書くことはできなかったが、しかし、藤原道長と紫式部との間には大きな緊張関係があったと考える。

対して、『輝く日の宮』で、丸谷才一は、道長を『源氏物語』の合作者とまで持ち上げて、紫式部は道長という権力者の庇護のもと、喜んでその意向に添う形で『源氏物語』を書いたのだとしてみせる。

*  *  *

『源氏物語』は、男と女の問題、そして、権力や身分社会の問題などに深く切り込んだ、現状批判の小説であり、『源氏物語』『源氏物語(大野晋)』『光る源氏の物語』に提示されるような順序で書かれたのだとすれば、紫式部のそうした現状批判の目は、明らかに、宮仕えによって養われ、先鋭化したと読むことができるのだが、丸谷才一の考えるように、紫式部が、時の権力者である道長の懐にぬくぬくと自足することができていたならば、紫式部がそうした目を持つことはなかったのではないのだろうか。

*  *  *

憂愁を底流として生きてきた彼女に、道長との接近は快活と幸福感とさらには優越感までも与え、大臣家に対する賛美をもたらした。彼女は女としてみずみずしく生き返った。しかしそれは彼女の根源的な志向のひとつである学問に対する人間の立場、それに導かれる倫理を貫いて生きようとする立場に対しては大きな矛盾をはらんでいた。事あるごとにそれは彼女の中でせめぎ合っていたはずである。しかし「倫理」に従って生きるよりも「女として生きる魅力」が、ある時期の彼女をとりこにしていたように見える。だから。もし中務宮の一件が生じなかったら、その状況はそのまま推移したかもしれない。
 ところが、長男頼道と、中務宮家との結婚の話のために道長が紫式部を本当の味方と見なして語りかけた。紫式部の内部に渦巻いていた矛盾は一挙に露呈したのだった。剛腹で細心で謀略をあえてする道長は全き味方ではないと断定した女に再び近づこうとはしなかった。冷静に見れば紫式部は所詮、単なる一人の女房、五位の階層の出身の女房風情にすぎない。
      ―略―
 彼女は一挙に違和感、劣等感、惑乱、恐怖の世界に追い込まれ、不安と不満、慨嘆の生活へと導かれた。時の経過につれて彼女は、依存を拒否して自己存在のあかしをみずから打ち立てる以外に道は残されていないという認識に追い詰められていったように見える。

――『源氏物語(大野晋)』

 生の根源において学問が好きで、それを大事にしたいと願って生きて来た彼女は、権力の維持と進展とを根本的に志向する道長の仲介のもとめに対して、その時、即座に満足な形で応答することができなかった。権力の機構も、身辺の人間も、すべてを掌握し、思うままに操ることによって生きて来た男は、この女房の一瞬のためらいを見逃さなかった。それは彼に対するひそかな敵意とすら彼に受け取られたかもしれない。彼は彼女に対する彼の認識を甘かったと思い、自分が不明だったと瞬時に考えたことだろう。それは直ちに二人の「特別な関係」の断止へとつらなるものである。それを紫式部の側から修復することは当然不可能なことであった。

――『源氏物語(大野晋)』

*  *  *

ここに垣間見える道長は、なんとも鮮やかで格好いい。
しかし、こうした男のもとに、紫式部のように自覚的な女が、その自我を保ちつつあり続けることは、大層困難で、危険ですらあるだろう。

*  *  *

『源氏物語』は、紫式部という“女性”によって書かれた小説である。
それ故に、大野晋は、『源氏物語』を読む女性たちに意見を求め、また、解を求めてボーヴォワールを読むなどして、この物語を女の視点で考えようと努力する。

 男にとって結婚とは、要するにそれは決断であり、能動であり、攻撃であり、征服である。そしてそれは解放であり、結果としてこの上ない快楽である。これは、きわめてストレートな事態である。しかし、未婚の女の人にとっての結婚は違うんじゃないか。私は男だから、そこがわからない。それで、ボーヴォワールの『第二の性』なる書物の第一巻を繙いたんです。そうしたら驚くべきことに、その本は「総角」の注釈書としてきわめて優れていることを発見しました。男はこれを読まない限り、「総角」をよく理解することは難しい。(笑)

――『光る源氏の物語』

*  *  *

『光る源氏の物語』で、「大君がなぜ死ぬのか、いまだによくわからない」という丸谷才一に、大野晋は、

娘というものが結婚することに対してどんなに恐怖を抱くか、そこをくぐり抜けることができるかできないかは男に対する信頼以外のなにものでもない。それだけを頼りに恐ろしい結婚をする、ということじゃないんですか。ところがそのときに薫は女二の宮と結婚した。匂宮は夕霧の六の宮をもらった。それではこれはもうとても耐えられない。そのことを書こうとしたんだと思うんです。

という解釈を示す。
これに対して、丸谷才一が、「女が結婚という恐ろしいことをするのは男に対する信頼のせいだけですか。」「それ以外の、つまり制度というものに対する信頼とか世の中の約束事とかあるでしょう。」と返すのに、大野晋は「そんなもの信頼していないでしょう。」とばっさり切って捨てる。

丸谷才一が「あの頃の女の人のなかには、結婚しようと思う相手の男が他の女の人と関係しているというのはずいぶんあったわけでしょう。」と言うのに、大野晋は「社会の制度としてはそうなっていたけど、それは一部の女にとっては実に耐えがたい、男のそういう不実に遭うと女はもう生きていられない、ということを作者は明確に形象化したんじゃないですか。」と返す。

大野晋は、男によって作られた男に都合のよい社会の枠組みのなかに女が幸せを見つけることはできないのだということを紫式部は『源氏物語』に書いてみせたのだと解釈するのだが、男にとって都合のよい社会の枠組みのなかに自足して、女もまた幸せであり得たのだと考えたい丸谷才一にとって、この解釈はどうにも受け入れがたいものであるらしい。

もしかすると、そうした解釈へのアンチテーゼとして、丸谷才一は『輝く日の宮』を書いたのだろうか。

*  *  *

「社会の制度としてはそうなっていたけど、それは一部の女にとっては実に耐えがたい」と言えば、光源氏にレイプされたとき、紫の上がどれほどショックを受け、それを嫌がったかを、紫式部はきちんと描いている。
当時のレイプは現代のように犯罪ではなかった、常識的な結婚の一形態だったのだからと、男性的価値観で強弁しようとも、女はやはりそれが嫌だったのだ。

*  *  *

『源氏物語』には様々な愛の形が描かれるけれど、当時の常識のなかでは幸せと考えられる形を手に入れたかともみえる女たちは、その内面において、決して幸せではない。

『男が女を盗む話』(立石和弘 著)の時に考えたように、当時の常識、男性的価値観によって形成されたその時代の常識に捕らわれず、変人と言われ、嘲笑の対象とされるような登場人物達のほうが、その内面においては、むしろ幸せだったのではないかとすら、わたしには思われる。

『光る源氏の物語』で、大野晋、丸谷才一のおふたかたがともに、残酷、不愉快と評される末摘花のエピソードも、傍からはどう見えようとも、末摘花自信にとっては、その行き着いた境涯は、むしろ幸せなものだったのではないのだろうか。

『源氏物語』 大野晋 著 2008年9月17日発行(原本は1984年5月21日) 1,300円 岩波現代文庫
『輝く日の宮』 2006年6月15日発行(原本は2003年6月10日) 733円 講談社文庫
『光る源氏の物語(上・下)』 1994年8月10日・1994年9月18日発行(原本は1989年9月7日) 838円・933円 中公文庫
『千年の黙 異本源氏物語』 2009年1月18日発行(原本は2006年2月25日) 667円 双葉文庫
『男が女を盗む話』 立石和弘 著 OTOKO GA ONNA O NUSUMU HANASHI by Tateishi Kazuhiro 2008年9月25日発行 840円 中公新書
『源氏物語』 GENJI-MONOGATARI by Murasaki Shikibu 紫式部 著 1010年頃成立?

RENGE-NOHARA NO MANNAKA DE by Moriya Akiko

れんげ野原のまんなかで

森谷明子 著

閑古鳥鳴く図書館で…

今のところ、森谷明子のただ1冊の現代物……だと思う。

「秋庭市のはずれもはずれ、ススキばかりがおいしげる斜面のど真ん中に」あって、閑古鳥鳴く「秋庭市立秋葉図書館」
この図書館で起きるささやかな事件の数々を、新米司書の文子をワトソン役に、わけありの先輩司書である能瀬が解決するミステリ短編集。

*  *  *

登場人物は皆まともな精神を備えた優しく善良な人々ばかりなのだが、かれらが事件を起こすに至る事情は、それぞれに深刻で辛く、痛みを知って優しい能瀬は、犯人を断罪することなく事件の糸を解きほぐし、上手に着地させるべく心を砕く。

語り手の文子があんまり莫迦なのでちょっと辟易ってところもあったけど、すべてをわきまえて思慮深い能勢のキャラクターが大層好ましく、それぞれの犯人(?)の心に涙しながら寄り添って、しみじみと暖かい読後感に浸ることができた。

レンゲソウは大好きで、わざわざ種を取り寄せて育てたこともありました。
この時、電話の向こうの種苗会社の人からは、「何キロ必要ですか?」と言われてしまった。
「あのその、田んぼに蒔くんじゃないんです〜〜(^^ゞ 」

2005年2月28日発行 1,500円 東京創元社 ミステリ・フロンティア

MIT TUBA by SegawaShin

チューバはうたう mit Tuba

瀬川 深 著

やっぱり……

『ミサキラヂオ』がとってもよかったので読んでみた。
表題作の他に2編を収めた中短編集。

*  *  *

表題作は、音楽に不案内で、特にチューバについては何も知らないわたしにも、既成の価値観に縛られることを肯んじない、なれ合わない、群れない主人公の姿勢が気持ちよく、納得して、共感しながら読み進めることができた。

ただ、主人公が偶発的に憧れのバンドと競演して対等に渡り合い、高揚感に陶酔するというラストの展開はどうもありきたりに思えて、ちょっとがっかり。
気持ちいいんだけどネ(^^ゞ

*  *  *

併録の「百万の星の孤独」は、移動プラネタリウムの一夜にいくつもの人生のひとときが交差して、悠久の星の時間を体感した人々は、それぞれの人生へと歩いていく……という物語で、『ミサキラヂオ』に通じる味わいの群像劇。

人と人との暖かい心の触れあいが心地よかった。

*  *  *

集中で一番短い「飛天の瞳」は、いささか斜に構えた放浪癖のある主人公が、戦前から戦中にかけて南方に夢を追って波乱の人生を生きた祖父の人生を垣間見て、これからの長いであろう自らの生に思いを致す物語。

落剥し、あまり扱いのよくない老人ホームでその生を終えようとする間際になって、思いもかけず知ることを得た、その人生が稔らせた小さな果実……。
「南洋に行った甲斐のあったばい」という祖父の言葉に涙した。

2008年3月20日発行 1,400円 筑摩書房

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