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2017年03月25日

『シン・ゴジラ』――幻想の日本を浸食するゴジラという現実――(ネタバレ注意)

歩行困難状態になってしまっているため映画館に行くことができず、ブルーレイが発売されてようやく『シン・ゴジラ』を観ることができた。

この映画に関しては、既にものすごくたくさんの評が出ているようで今更なのだが、衝撃が大きかったので、一応、ほとんど初見の段階でのわたしの所感を書いておく。
まだ特典映像などは観ておらず、たくさん出ている関連本も読んでいない状態です。

*  *  *

非常に素晴らしい作り込みで徹底的にリアルに表現された、よくできた楽しい正統派の怪獣映画で、大ヒットした理由がよくわかる。
ゴジラの造形は異様で怖いけど、これも大好きな怖い初代ゴジラを彷彿させて嬉しく、1954年版『ゴジラ』その他の怪獣映画へのオマージュとしてもよくできていて楽しい。
でも、ストレートすぎてちょっと物足りないかなぁ……なんて思って観ていたわたしは、ラストのゴジラの尻尾に吃驚仰天。
なるほどこれは凄いと納得した次第。

*  *  *

映画はほぼ全編にわたって、現実に即した人間社会の醜さをほとんど描かず、それぞれにまともでまじめなたくさんの人たちが、日本のために心を一つに力を合わせて怪獣をやっつけ、明るい未来を目指す姿を描く。
そのために命を落とすことになる局面が出てきても、その一つ一つの死はさらりと軽く描かれて嘆き悲しむ遺族の姿もないため、人々に心の傷を残すことはない。
そして、素晴らしい国である日本は世界中に好かれて、世界は日本を応援してくれる。

これは現在の日本人の多くが憧れ、こうあれかしと願う、非常に心地よくわかりやすい、幻想の日本像であると思われる。

しかし、この幻想の日本では、日本人の絆の輪の中に入ることのできない、規格外の異端は許されない。
世界は日本とごく少数の欧米先進国とロシアと中国だけでできていて、そこには、訳のわからない面倒な要素が入り込む余地はない。

異端や訳のわからない面倒な現実をすべてゴジラの中に封じ込めてしまって見えないものにすることで、この映画の幻想の日本は成り立っている。

しかしこの映画には、幻想の日本に違和感を抱いて異端となった人物がひとりだけ描かれる。
牧悟郎元教授である。
映画に直接登場することのないままキーマンとしての役割を果たす牧悟郎元教授は、幻想の日本には不都合な存在として見えなくされてしまった者たちの代表であると思われる。

異端となった牧悟郎元教授は多分ゴジラの中にいるのだろう。
そして、牧悟郎教授を取り込んだゴジラは、幻想の日本を崩壊させるために、日本の首都を目指したのではないか。

ラストの映像に姿を現す、人間型を始めとするたくさんの小さいゴジラ様のものが第5形態ゴジラだとすると、ゴジラが覚醒して第5形態ゴジラがうじゃうじゃと無数に解き放たれる時、居心地の良い幻想の日本は終焉の日を迎え、混沌を極める現実のわたしたちの苦難に満ちたおぞましい世界が現出することになるのだろう。
もっとも、無生殖による個体増殖の可能性が示唆されているところから鑑みて、ゴジラが落とした肉片や体液を通して、あの幻想の日本への現実の侵食は既に着々と進行しつつあるようにも思われる。

*  *  *

わたしは、牧悟郎教授は、自分の遺伝情報をゴジラの中に取り込ませることでゴジラに同化したのだろうと思っています……今のところ。
でも、それで意志とか想いとかまで取り込ませることができるかというと……、科学的にはあり得ないだろうなぁ。

無人在来線爆弾は楽しかった。
つい、「山手線、頑張れっ!!」って思ってしまいました(^^ゞ

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なおこれは、受け取る人それぞれに即したそれぞれの解釈があるだろうこの映画の、わたし個人の解釈に過ぎないことをお断りしておきます。
つくづく考えさせられるこの映画には、多分、見る人の数と同じ、それぞれに異なる解釈があるんじゃないかと思っています。

わたし自身、何回か観ているうちに考えが変わってくるかもしれません。


3月27日追記 : 見直し中に、「対馬沖付近に不穏な動き」という台詞があることに気がついた。

『シン・ゴジラ』特典映像、観ました〜〜っ(^^)v(ネタバレ注意)
『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』(倉谷滋 著)
posted by 庵主 at 13:23| 映画

2017年03月21日

豊洲移転問題と専門家

「3.11」で「専門家」なる人たちの「大丈夫」が如何に当てにならないかを思い知らされたわたしには、築地市場の豊洲移転問題における、専門家の「大丈夫」がまったく心に響かない。
どうせ門外漢にはわからないと言わんばかりに、詳しい説明もないまま、ただ頭ごなしに「科学的に安全なのだ」と言われても、到底納得できるものではない。

あの数値でも安全だというのなら、どうして安全なのかを、素人にもわかるようにきちんと説明して欲しい。

それも「3.11」の時にさんざん聞かされた、「直ちに人体や健康に影響を及ぼす数値ではない」かどうかだけではなく、長期にわたっての安全性がどうなのかをわたしは知りたい。
豊洲に短時間置かれるだけの食材を食べてもすぐには害がないというだけではなく、そうした食材を長期にわたって食べ続けても大丈夫なのか、また、あの環境下で常時働き続けることになる市場の人たちにまったく害がないのかどうかをわたしは知りたい。

専門家が科学的に安全だと言っているのだからと強引に納得させられたあげくに何年もたってから何かあった場合、責任を取ることになるのは、その頃には既に引退しているであろう政治家でも役人でも専門家でもない。
納得して受け入れてしまったわたしたち自身やこどもや孫たちの世代が、「自己責任」という言葉のもとに、被害を受けたあげくに責任を取ることになるのである。
わたしたちの間に悲惨な症例が多数出たあげく例え公(おおやけ)が責任を取ることになったとしても、その対策に使われるのはわたしたちが支払う税金なのである。

*  *  *

それにしても、今回、どうして8回目までの調査方法と9回目の調査方法との両方のやりかたで地下水の調査をしなかったのかわからない。
同時に行われた二つの調査方法による結果を比較検討することで、数値の違いが調査方法の違いによるものなのかそうでないかを確かめることから始めるのが、科学的な態度というものではないのだろうか。

調査方法の違いによって結果に違いが出た場合は、8回目までは恣意的に低い結果を出すためにそうした方法をとっていたのではという疑念をたださなければならないだろう。

調査方法の違いによって結果に違いが出なければ、8回目と9回目の調査の間に何があってこうなったかをきちんと解明する必要があるだろう。
言われているように地下水管理システムが稼動したことが原因なら、これからさらに危険性が上がっていくことになるのか、あるいは下がっていくことになるのかを、「科学的に」検証する必要があるだろう。

こうしたことは門外漢には説明する必要もない、専門家には自明のことなのかもしれないが、都民の大半を占める素人にわかる形の説明がなされない限り、そうしたことが皆の知るところになると何か困ることがあるのだろうとの疑念を抱かざるを得なくなってしまう。

*  *  *

なお、食品関係で問題が起きる度に繰り返されるあのパフォーマンスにならって今回もなされるかもしれない、テレビカメラの前で豊洲の地下水を飲んでみせるというパフォーマンスは、何の安心材料にもなり得ない。
なぜならあのパフォーマンスで実証されるのは、もう先の長くない、おそらくこの先こどもを作ることもないであろう年配者の、1回だけの摂取によるごく短期的な安全性でしかないからである。
posted by 庵主 at 15:32| ニュース , 独り言

2017年03月15日

ビーフストロガノフを作ってみた

家で食べる市販のものにはあまり肉が入っていないので、思いきりたくさん肉の入ったビーフストロガノフを食べたくて、いろんなレシピを参考に自己流で作ってみた。
材料を揃えるのがちょっと面倒だったけど、案外簡単で、時間もそんなにかからず、味も本格的で大満足。


●材料(2人前?)
あまり刺しの入っていない牛肉薄切り 250gくらいを4〜5センチくらいの食べやすい大きさに切る
タマネギ 大1個を薄切り
マッシュルーム 6個入り1パックを薄切り
シイタケ 1パック 傘の部分を薄切り
パセリ みじん切り

無塩バター 適量
塩・胡椒 適量
小麦粉 大さじ1.5くらい
粉末パプリカ 小さじ1
湯 適量
エスビー カレープラス フォン・ド・ボー 1袋
ブランデー 大さじ2から3くらい
タカナシの北海道サワークリーム 100g(つまり1カップ)

1.フライパンに無塩バターを入れてタマネギを炒め、マッシュルームとシイタケを入れてさらに炒める。
2.タマネギが透き通ってきたら牛肉を入れて塩胡椒。
3.牛肉に八分どおり火が入ったら小麦粉大さじ1.5を振り入れて全体にまぶすようにする。
4.パプリカ小さじ1を入れる。
5.湯(少なめ・カップ半分くらいかな?)とフォン・ド・ボーを入れる。
6.ブランデーを入れる。
 (火が上がるかもしれないのでフライパンを覆って火を消すことができるフタを用意しておく)
7.サワークリームを入れる。
8.再び煮立ってきたら味見して塩胡椒で味を調え、弱火で少し煮る。
9.いい感じにちょっと煮詰まって塩胡椒が馴染んだら皿に盛り、パセリのみじん切りをかけてできあがり。

マッシュルームはもっと多くしてもよかったかも。
シイタケはビーフストロガノフの定番ではないのでないので、シイタケを入れない場合は、その分、マッシュルームを増やせばいいと思う。
posted by 庵主 at 02:26| 料理

2017年03月14日

バルサのイメージ(『精霊の守人』)

実写版『精霊の守人』のバルサ役の綾瀬はるか、凄く頑張ってよくやっていると思うのだが、あの美しい顔とモデル体型の細身の肉体で激しく戦い傷つくところを見ていると、痛々しさが際だって辛いものがある。
もちろん原作のバルサにも痛々しさは充分にあるのだが、わたしのイメージのバルサは、精神的にも肉体的にもチャグムやアスラの重荷を軽々と背負って戦える、頼りがいのある逞しいおばさんなのである。
せっかく実写で『精霊の守人』をやるのなら、うちに秘めた痛々しさを表に出すことなく戦える、リアルに逞しい強靱な肉体を持ったバルサが欲しいのだ。
全盛期のシュワルツネッガーの戦闘シーンに見惚れたように、バルサの戦闘シーンに見惚れてみたいのだ。
そんなわたしが実在の人物でバルサを考えるときに浮かぶのは、格闘技系のアスリートの顔と身体なのである。

もっともわたしは美しく繊細な綾瀬はるかのバルサも結構好きなので、これはこれで楽しんでいるんですけどネ(^_^)
posted by 庵主 at 05:16|

2017年03月09日

『おばちゃんたちのいるところ−Where The Wild Ladies Are(松田青子 著)』(ネタバレ注意)

よく考えると大変なことを言われているようにも思うのだが、ユーモアに満ちた語り口は読みやすく、深い感動があって、読後感は爽快。

困難に満ちた生が終わった後の日々がこんなだったら、どんなに救われることだろう。
幽霊がこんな風に生者を助けてくれたら、どんなに嬉しいことだろう。
生者と死者と女と男が、何の差別もなく、それぞれの能力に見合った仕事をしながらこんな風に楽しく働ける会社があったら、わたしもそこで働きたい。

「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」というのは対人関係の基本としてよく使われる言葉だが、これを実践するのはなかなか難しい。

自分はこんな理不尽に耐えてきたのだから、他者もまたそうした理不尽に耐えるべきだと他者の苦難に冷たい目を向け貶めることで、困っている他者にさらなる理不尽を強いるという、理不尽の負のスパイラルが横行しているのが、生きることが大変過ぎてゆとりを持てない今のわたしたちの現実なのだろう。

しかし、生きることの重圧から解放されて心身ともにゆとりを持ったこの小説世界の死者たちは、そうした理不尽からも自由になって、「己の欲する所を、人に施すこと」に力を尽くそうとする。
困難な生を終えてパワフルに変身した「The Wild Ladies(おばちゃんたち)」は、それぞれが身につけた能力を、その怨念に満ちた生前の恨みを晴らすためではなく、自らが味わった理不尽や困難から今ある生者たちを解放するために使おうとするのである。

そうした死者から生者へのメッセージは、物わかりよく諦めてしまわず、もののけになって化けて出るほどしつこく執念深く真摯に生きよということか。

*  *  *

「生きている人間には、何かあると死ぬっていう大きな制限がある。死ぬ肉体を持っているって、ものすごく窮屈だ。そのうえ、社会なんてものがあるから、さらに窮屈で、俺、人間ってかわいそうだと心底思う。」(「楽しそう」)

「今は、男でさえ正社員になるのが難しいらしい。悪い意味で、平等になった。女が上がらず、男が下がってきた。かつては女にしか見えなかったはずの天井が、この青年にも見えている――略――しかも、天井が見えているのに、男というプレッシャーを背負え、背負え、俺たちと同じように背負えと、上の世代の男たちから常に見張られているようなところもあり、ますますかわいそう――略――ある側面、女と男の絶望の量がもうすぐ同じになる。」(「クズハの一生」)

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著者自身の思いを赤裸々に綴ったものと思われる、女として人間の世界に生を受けてしまったことへの怨念の吐露の数々には、共感できるところが多かった。
posted by 庵主 at 04:54|
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