酒井昭伸氏が新訳版の「訳者あとがき」で、「本文だけでも用語の意味はつかめるように訳したつもり」と書いておいでになるとおり、いささか過剰なまでに懇切丁寧に翻訳された新訳版は、旧訳版と違って、ところどころで「用語集」を参照する必要がないので、物語がスムーズに流れて、登場人物の感情に乗ってどんどん読み進むことができるのは驚きだった。
旧訳版では、再読再々読してようやく達することのできた境地に、初読であっても到達することができるのである。
ただ、旧訳版にあった、「用語集」を手がかりに、容易に入り込めない異質で異様な錯綜した世界と格闘して、そのただ中に分け入っていくことの楽しさおもしろさはなくなってしまっている。
SF小説の醍醐味とも言える、異質な世界の異質な視点をもって描かれた作品世界が苦闘の末に自分のものになって目の前に大きく開かれたときの喜びを味わえなくなってしまったのは、やはり残念というしかない。
「キリスト教の『聖書』からの出典」箇所を「無粋を承知で、本文中には引用元を補足しておいた」というあたりも、わかりやすくなってよかったと思う反面、自分で発見する楽しみをそがれてしまった気がして、良かったのか悪かったのか、判断に苦しむところではある。
もっとも、わたしがここまですらすら読めたのは、既に作品世界を知った上で読んでいるからかもしれず、本当の初読者にとっての印象はまた違うかもしれない。
そういえば、SF大会の合宿でアルコールを聞こし召していらした旧訳版の翻訳者である矢野徹氏――わたしもしこたま酔っていました(^^ゞ ――が、『デューン』の翻訳について、「わけのわからんものをわけのわからんまま翻訳しなけりゃならんのは辛い」というようなことをおっしゃっていたのを思い出す。
シリーズ自体が現在進行形の状態で五里霧中のままに翻訳する――しかも、当時は情報収集するにしても、ネットなんてものはまだなかった――のと、作者が亡くなって作品に新しい要素が加わることがなくなってから全体を俯瞰した上で翻訳するのとでは、精度が違ってくるのは当然なので、多分、今回の翻訳が決定版ということになるのだろうが、英語を母語とする人たちが原書を読むときの感触が、旧訳版と新訳版の、どちらに近いものなのかは気になるところではある。
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「外国語のカナ表記」に正確性を期そうとする酒井氏のこだわりで、「ムアドディヴ」が「ムアッディブ」に、「クイサッツ・ハデラッハ」が「クウィサッツ・ハデラック」に、「チャニ」が「チェイニー」に変わったところなどは、旧訳版の言葉を頭にたたき込んでしまった身にはどうしても違和感を感じざるを得ないが、それでもやはり本来の発音を知ることができるのは嬉しくて、「ああ、そうだったのか」と納得。
「外国語のカナ表記」については、矢野徹氏も旧訳版第1巻の「訳者あとがき」で、「この話の中に出てくる用語の発音について読者のみなさんからいろいろとご意見が出されることと思う」、「平仮名で外国語の発音を完全に現わすこと不可能だから」と書いておいでになるように、正解のない難しいところなのだろう。
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「用語集」は原書や旧訳版のように全部をひっくるめたアイウエオ順にして、分類は注釈として入れておくくらいのほうが使いやすかったと思う。
どの言葉がどの分類に入るのかは作品世界を知悉した上でなければわからないのに、それがわかっていないと参照しづらい「用語集」では使い物にならないのではないだろうか。
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「繰(からく)り声」とか「産砂(うぶすな)」という訳語については……、「繰り声」に「ヴォイス」、「産砂」に「メイカー」と、ふりがなをふるくらいにしておいてくださるとよかったような気も……。