「オリンポスに神がみが立つよりも昔、あるいはアラーがアラーであるよりも昔に、マアナ=ユウド=スウシャイは休息についた。
いまペガーナには──ムングとシシュとキブ、それから、かれらちいさき神がみのことごとくを創りだしたマアナ=ユウド=スウシャイとが、住むことになった。それだけではない、ルウンとスリッドもわたしたちの信仰の対象(あいて)になる。
いにしえのいい伝えに聞くと、今この世にあるものごとは、神がみを創ったあとで休息についたマアナ=ユウド=スウシャイひとりをのぞいて、そのどれもが、ちいさき神がみの手でこしらえられたものなのだそうだ。
だから人間は、マアナ=ユウド=スウシャイに祈りをささげたりはせず、かれが創りだしたちいさき神がみにだけ、みんなの希(ねが)いを寄せるのだ。
けれども、終末(おわ)がめぐってくるその日に、マアナ=ユウド=スウシャイは休息から醒めて、もういちど新らしい神がみと世界とを創ったあと、まえにあった神がみをぜんぶこわしてしまうにちがいない。
そのとき、神がみとかれらの生んだちいさな世界とは、この世からすっかりすがたを消し、あとはマアナ=ユウド=スウシャイがたったひとりだけになる。」
まだこの世が生まれる前、“宿命(フェイト)”と“偶然(チャンス)”とが賽を振って勝負を決めた。
そしてマアナ=ユウド=スウシャイは、賭けに勝ったものの願いを聞いて、“宿命(フェイト)”と“偶然(チャンス)”のいずれかのために小さき神々を創った。
“宿命(フェイト)”と“偶然(チャンス)”と──、勝負に勝ったのがどちらであるのか、世界を支配するものがいずれであるのか、それはマアナ=ユウド=スウシャイのほかは誰も知らない。
神々は、マアナ=ユウド=スウシャイに創られ、そのまま忘れ去られてしまった小さな玩具にすぎない。
そして、マアナ=ユウド=スウシャイが眠りについている間に、その小さき神々は、手慰みにこの世界と人間たちを創ったのである。
マアナ=ユウド=スウシャイが眠りについている間だけ存在し、マアナ=ユウド=スウシャイの目覚めとともに終末が約束されている、ちっぽけな世界、ちっぽけな時間。
あまりにちっぽけなため、天国も地獄も来世もない世界。
ペガーナの神々の世界では、救ったり、救われたりと言ったほどには、神も人間も大したものではないのです。
殊更に理屈を繕(つくろ)ったりすることもなく、ペガーナの神々は、人間の生き方を道徳で縛ることもありません。
ただ、神々に対する謙虚だけは、この神々もまた要求します。
ちっぽけな人間は、ちっぽけな世界で謙虚に自分の生命(いのち)を生きるしかありません。
どんなに驕(おご)り高ぶったところで、すべては所詮、マアナ=ユウド=スウシャイの目覚めるまでの戯れに過ぎないのです。
人間にとっても、そして、神々にとってさえ──。
救いも何もない、スカアルの打ちならす太鼓の谺(こだま)とともにただ流れていくだけの謙虚な世界が、たいそう心地好いものに感じられます。
こうした世界で、かえって人は、安らぎに満ちて落ち着いた生を生きられるような気がするのです。
人は人間や世界を特別なものだと自惚(うぬぼ)れるからこそ、そのなかでさらに特別なものになろうと無理を重ねているのかもしれません。
これは、世界の終末をその前提においた、静寂に満ちた諦感の漂う、物悲しくも不思議な安らぎに溢れる、神々とそして人間の物語です。