東勝神州(とうしょうしんしゅう)の海の外、傲来国(ごうらいこく)の花果山(かかざん)の頂きに一つの石があった。
この石が、天地の霊気、日月(にちげつ)の精華(せいか)に感応して石の卵を生み、その卵から生まれたのが、このお話のの主人公、石猿の孫悟空である。
悟空は巨大な滝を潜り抜け、水簾洞(すいれんどう)を発見して猿たちに住まいを与えて、花果山の猿の王になる。
猿たちの王様として楽しく暮らす悟空であったが、あるとき彼は、いずれは自分が死ななければならない身であることに気づいてしまう。
そこで彼は、不老不死を求めて遥かな旅をした後(のち)、菩提祖師(ぼだいそし)という仙人の弟子となり、厳しい修行を積むのであった。
妖仙となって花果山に帰ってきた悟空は、“きん斗雲(字がない!)”に乗って空を飛び、その言葉次第で大きくも小さくも自由自在の一万三千五百斤もの重さ(とにかく、物凄く重い!!)の如意金箍棒(にょいきんこぼう)を操り、変身自在、身体の毛を抜いてプッと吹けば自分の分身をいくらでも作れるといった能力で、もうやりたい放題し放題。
結局、天界でさんざん悪事を働いたあげくの果てに捕まって、罪滅ぼしのため、お経を取りに行く三蔵法師(さんぞうほうし)のお供をして、猪八戒(ちょはっかい)や沙悟浄(さごじょう)とともに妖怪どもと戦いながら、中国から天竺(インド)までを旅することになる。
とにかく奇想天外なとても楽しいお話です。
もっとも、本当に痛快なのは、物語の入口の、孫悟空が天界で傍若無人の振る舞いをするところまででしょう。
どんな相手が出てきても簡単にやっつけて、天界のもったいぶった権威をさんざん叩きのめしてしまう痛快無比なところはたまらない快感です。
無邪気で、素直で、やりたい放題の悟空がとても爽快です。
それに比べると、頭に“緊箍児(きんこじ)の輪”をはめられて、三蔵法師のお供で天竺目指しての旅を始めてからのお話は、もう一つ……と感じてしまうのです。
“緊箍児の輪”というのは、三蔵法師のお供となった悟空が逆らわないようにと、観音菩薩が三蔵法師に授けた金の輪です。
この輪を頭にはめられた悟空は、三蔵法師がそのためのお経を唱えるたびに頭を締めつけられて、たいへんな苦しみを味あわなければなりません。
どうも、こうして行動の自由を奪われた悟空では、胸のすく活躍を手放しに楽しむというわけには行かないのが悲しいところです。
孫悟空の自由を奪っている三蔵法師は、憶病で、面倒なことはみんな他人に押しつけて、何もしない(というよりできない)くせに、ただ納まりかえって威張っているだけです。
言うことも時々矛盾しているし、ただの人間であるために、孫悟空の見えるものが見えなくて間違って悟空を罰したり、そのくせ謝ることを知リません。
こういう三蔵法師に仕えてへいこらしていなければならない悟空はあんまり見ていたくないのです。
もっとも、実際の三蔵法師玄奘(げんじょう)は、あれだけの困難な旅をたった一人で成し遂げた驚くべき行動力と勇気の人で、
『西遊記』の三蔵法師の造形はあんまり酷いという気もしないではありません。