スコットランドの高地地方に、3世紀の頃存在したと言われる伝説の偉大な王フィンガル。
その息子オシァンが年をとって失明してから、戦(いくさ)の日々の思い出の数々を美しく躍動感のある言葉で歌います。
フィンガルはみずからの領地を守って戦うのみでなく、海外のよその諸領にも乞われて遠征し、一族のものたちとともに数々の勲(いさおし)を打ち立てます。
けれども戦いを重ねるなかで、親しいものたちや惜しむべき敵の武将は次々と倒れていきます。
その魂を死後の世界に安らがせるために、そして、死者を傷む心を和らげるために歌われる数々の勲(いさおし)の歌……。
死後、頌歌(ほぎうた)を捧げられた勇者は皆、“オーディン神の雲の宮居(みやい)”へ行き、そこで愛するものとよりそって幸せに暮らすのです。
その高潔な心ばえゆえに、落ち延びることを肯(がえ)んじず、あくまでも戦いのなかで死んでいくことを選ぶ勇士たち。
美しい娘は敵の将に悲劇的な恋をし、また、愛する人のそばにいたいがために男装して戦列に従います。
フィンガルは、フィン、あるいはフィン・マックールとして、スコットランドだけでなく、ケルト系の民の間にさまざまな伝承を持つ英雄です。
そして、この物語の語り手とされるオシァンも、やはり有名な英雄として、偉大な詩人として、たくさんの伝承を残しています。
『オシァン』は、語り手であるオシァンの一族がすべて死に絶えて、みずからの時代がすでに過ぎ去ってしまってから、思い出として昔を語るという形を取っています。
そのためでしょうか。
『平家物語』の「祇園小舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の聲(こえ)、諸行無情(しょぎょうむじょう)の響(ひびき)あり」といった類(たぐい)の悲壮感や無常感とも共通する感傷(センチメンタリズム)に溢れた作品になっていて、たいへん心を打つものがあります。
荒涼とした北の地を背景に、どんな勲(いさおし)や燃えるような恋も、すべては流れゆくときのなかで、うたかたの泡となって消えていってしまうのです。
読んでいるとしんしんと心に染みとおってくるような、非常に心に残る作品です。
民間に伝わるオシァンの詩群は、18世紀の後半になってから、スコットランドの詩人マクファーソンによって改めて採集、再構成され、初めて英語に翻訳されて万人に読める形になりました。
その叙情あふれる文学性のゆえに、この作品はヨーロッパ全土と、そしてアメリカに大反響をもたらし、熱烈な愛好家を多数生み出したのです。
けれども、同時に、政治的な理由もあって贋作論争が巻き起こり、今日に至ってもまだきちんとした決着はついておらず、この論争は続いています。
もともとスコットランドは、イングランドとは別の独立した王国だったのですが、1707年、ずいぶんと不平等な条件のもとでイングランドに合併されました。
そのためスコットランドには、イングランドに対する根強い反感が残ることになったのです。
マクファーソンによって『オシァン』が発表されたのも、1745年のスコットランドのハイランダーによるイングランドに対する蜂起が失敗して間もないときでした。
スコットランドの文化や言語に対する弾圧は熾烈を極め、固有の文学も壊滅寸前の状態にありました。
スコットランドへの支配の正当性を確かなものにするためにも、野蛮で未開の地であると喧伝(けんでん)してきたスコットランドのハイランダーの地に、これ程の文学性豊かな作品が残されていたことが世界に示されるのは、イングランドにとっては不都合窮まりないことだったのです。
こうした経緯のなかで、スコットランドの文学についてはなにも知らない人たち──彼らは、スコットランドに固有の文字があったことも、また、古くからの文学作品がこの地に残されていたことも知りませんでした──によって提示された論争です。
ですから、私など、一も二もなく、これが古くからスコットランドの地に伝わる本物であると言い切ってしまいたいのですが、論争が今日も続いているということは、そうも言い切れないなにかがあるのでしょう。
もっとも、単なる一読者として『オシァン』を味わうにあたっては、たとえこれがマクファーソンのまったくの創作であったとしても、そんなことはどうでもいいことかもしれません。
どういう成立過程を経たものであったとしても、『オシァン』が、切々と読者の心に訴えかけてくるものを持った素晴らしい作品であることに変わりはないのです。
なお、“オシァン”を含むケルトの伝承に関しての総合的な書としては、ちくま文庫の『ケルトの神話』をお薦めします。
また、フィンガルの若かりし頃の冒険の物語はアメリカの一作家の手によってまとめられ、『フィン・マックールの冒険』として現代教養文庫から刊行されています。