第3章 変形する過去・未来 変形する過去〈日本編〉

SHION-MONOGATARI by Ishikawa Jun

紫苑物語

石川淳


生きることで己の芸術を完成した男の
滾(たぎ)る生命(いのち)

歌の道を捨てて弓の道を選んだ宗頼

王朝末期、先祖代々都に続いた歌の家に宗頼(むねより)は生まれた。
生まれながらに歌の才を持った宗頼にとって、言葉は自然に歌となって唇に浮かぶのだった。
しかし七才のとき父によってその歌に朱を入れられて、彼は歌の道に絶対はないことを悟る。
そのため宗頼は、絶対を求め、歌を捨てて弓の道を選んだのである。
父はそんな宗頼を見捨て、都から追い出すために、遠国の守(かみ)の地位を用意した。
無聊(ぶりょう)を覚悟して来た遠国には、しかし、行けども涯ない山野があり、山野には捕れども尽きない鳥獣が棲んでいた。

憑かれたように狩りをする宗頼。
しかし不思議なことに、その矢はただの一度も獲物を捕えたことがない。
射止めたと見えた獲物は必ず、放った矢とともに、ふっとどこかに消え失せてしまうのだ。
そうした不思議は、ある日宗頼が、谷川のほとりで一匹の小狐を仕留めるまで続いた。
このとき、仕留めた小狐に手をかけようとした雑色(ぞうしき)──召使──二人を射殺(いころ)して、これより、宗頼の弓は人の血を求めて狂うことになる。

宗頼の前に立ちふさがるうつろ姫

その夜、彼の弓の師匠である弓麻呂は、宗頼の眼前で、家人の一人を射殺して見せた。
男の行こうとしていた小道の先には、宗頼の妻のうつろ姫の住む棟があり、そのことと死に際の男の言葉から、宗頼はうつろ姫のもとに通う男たちがあることを知る。
うつろ姫は、政略結婚によって押しつけられた醜く白痴めいた妻で、宗頼は彼女を忌み嫌って打ち捨ててあったのだ。
次の夜、うつろ姫の寝所で絡み合う男女の姿を見た宗頼は、その場で男を射殺した。
しかし、男の骸(むくろ)の下から踊りあがったうつろ姫の姿は、館にあるかぎりの男の精魂を手当たり次第にむさぼり食って、磨き抜かれ、見事に美しかったのである。
姫の裸身は、「代代の名族の血をうけて、ぬくぬくと権門に育った生きものの、おそれを知らぬ威令」を持って、宗頼の前に聳(そび)え立ったのである。

守の領地には、やはり、宗頼の前に聳えて立ちふさがる岩山がある。
岩山の向こうには血の違うものの住まう里があり、宗頼はその里への立入を禁じられていた。
ある日、彼はその岩山に登る。
そこには平太と名乗る男が住んでいて、岩山に仏の姿を刻んでいるのであった。

千草

岩山から帰る途中、宗頼は野なかに女を拾う。
名前は千草。
そして彼女は、あの醜いうつろ姫しか女を知らぬ宗頼に、初めて性の喜びを教えたのである。
以後、宗頼の館に暮らすようになった千草は宗頼に、家のものを罰し射殺す口実としての、それぞれの秘密を教え続けることになる。
不思議なことに、彼女は滅多に人前に姿を現さないにもかかわらず、どんな小さな秘密といえども知らぬところはなかったのである。

やがて宗頼は、人を射殺すことに口実さえも必要としなくなる。
人々は、そんな守を恨み憎むより、これを荒ぶる神の憤怒とあおいで恐れ慄(おのの)くだけだった。

そしてある夜宗頼は、寝所に灯りを導いて千草の正体を見破った。
その背に残る弓の傷……。
千草は、谷川で宗頼が射留めて、その場に捨て置いてきた小狐だったのだ。
彼女は復讐のためにやってきて、宗頼を人々が憎み恨むようにと仕向けていたのである。
しかし、彼女の正体を知っても、宗頼は千草を離そうとはしなかった。
そして千草もまた、目的を忘れ、宗頼を生きながらの魔神であるとたたえて、改めて主と仰ぐことを誓うのだ。

生を突き抜け、死をも恐れぬ宗頼のエネルギーは、とどまることを知らず、天に向かい、仏に向かい、破局に向かって突き進んでいくことになる。


芸術家の悲劇

イラスト・狐不思議な物語です。
生きることで歌を体現し、死ぬことでそれを完成した一人の男の物語……。

宗頼が生きることで体現した歌の道は、生きているかぎり絶対ということはあり得ません。
だからこそ、彼はその完成を求めて、物凄いばかりの力をもって前へ前へと進まなければならなかったのです。
宗頼は、人を殺せば、それを極めるために血を求めてやみません。
人を愛すれば、また、それを極めるため、たとえそれが小狐と知っても愛することをやめません。
それは、死ぬまで精進を止めることのかなわぬ芸術家のエネルギーであり、悲劇でありました。

そして彼のまわりには、芸術とは無縁の凡庸な人間たちや、また相反する美意識を持って彼の前に立ちふさがるたくさんの障害がありました。
それは、彼が芸術家として乗り越えなければならない壁だったのです。
変わらぬことを絶対として、彼の前に禁じられて聳え立つ岩山とそこに刻まれた仏たち。
それは、生きること、変わることの行き着く先に絶対がある宗頼の芸術の対極にあるものでした。
宗頼の前に立ちふさがるうつろ姫の美は、彼の美意識の決して認めることのできない、けれどもやはり、彼のものとは対極にある別の形の美だったのです。
こうした壁を乗り越えて、歌の道は、宗頼が死んで初めて完成するのです。

文体のエネルギーが伝える滾(たぎ)る心

十九才の若き主人公、宗頼の命のほとばしり、滾る心。
先鋭すぎる理知を持て余し、みずからの生き様を求めて苛立つ宗頼の思いを、激しい生を、文体の力強さが余すところなく伝えてくれます。
まさに、文体のエネルギーが、有無を言わさず読者を引き込んで、物語をぐいぐいと引っ張っていくのです。

物語のなかに隠されたいくつもの象徴的な対比など、緊密に考え尽くされて凝縮された文章は、ていねいに読み解いていくと1個の文章にもたくさんの意味を読み取ることができます。
そのため、それほど長い物語ではないのですが、ずっしりとした読みごたえがあり、読者にもそれなりのエネルギーを要求する作品と言えるでしょう。

さまざまに考えさせられて、何度読み返してもなお行き着くところを知らない一編です。


「紫苑物語」(『紫苑物語』所収)  SHION-MONOGATARI in "SHION-MONOGATARI" by Ishikawa Jun  石川 淳 著  1957年7月5日  新潮文庫
「紫苑物語」(『紫苑物語』所収)  SHION-MONOGATARI in "SHION-MONOGATARI" by Ishikawa Jun  石川 淳 著  1989年5月10日  講談社文芸文庫

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