平安の昔。
丹沢山渓、水無し川。
乞食僧に山芋と魚を恵んでやらなかったばかりに、鵙(もず)の母親は苦しみの果てに餓死してしまった。
僧の験力(げんりょく)によって川の水を止められ、畑を失い、里人からも疏(うと)まれて、川に頼る母子の貧しい暮らしは成り立たなくなってしまったのである。
母子にとって、僧に与えることのできなかったわずかな山芋と魚は、生きていくためのぎりぎりの大切な日々の糧だったのだ。
鵙は母親の身体を喰らって生き延びた。
それが、恨み死にした母親の遺言だったのである。
鵙の話を聞いた旅の私度僧(しどそう)──正式に僧職にあるのではなく勝手に僧の格好をしている者──六連道士(むつらどうし)は、高野山を本山とする真言宗のの布教のために母子が利用されたことを知る。
六連道士は、地位も血筋も財力も学識も持たず、そのため僧となることを許されず、私度僧となるしかなかったのである。
彼は、自身が捨ててきた高野への挑戦のために、鵙に闇の術を仕込むことにする。
しかし鵙のあまりの上達の速さに、みずからの未熟と老いを思い知らされ自暴自棄になった六連道士は、女を修行の場に連れ込むまでに堕落してしまう。
女は、藤原一族の讒言(ざんげん)によって太宰府に流されて死んだ菅原道真の一族沙羅(さら)だった。
彼女はそのために遊(あそ)び女(め)にまで堕ちていたのである。
沙羅は鵙を誘惑し、彼を抱こうと鵙に迫った。
これを見て逆上した六連道士と戦い師を破った鵙は、高野一の手練(てだ)れ、空海(くうかい)の廟所(びょうしょ)を守る俊浄(しゅんじょう)に戦いを挑むことになる。
こうして始まった怨念の血の系譜はさらに続く。
沙羅と六連道士の間には、一寸法師と鉢かつぎ姫が生まれ、彼らの暗躍は、俵藤太(たわらとうた)の百足(むかで)退治の物語になって伝えられることになる。
水無し川に住み暮らすまま山姥(やまうば)となった沙羅は、その未来を占うことと引換えに平将門(たいらのまさかど)に抱かれ、彼との間に新たな闇の子供、金時(きんとき)──マサカリかついだ金太郎──をもうける。
金時の闇の術は、鬼となって都に仇なす平将門の物語を生み出した。
そして、一寸法師が凌辱した倫子(りんし)からは、女と見紛(みまが)う美しさに、自然界を操る不思議な力を秘めた鬼一(きいち)──酒呑童子(しゅてんどうじ)が産まれ、彼らが互いに絡んで、物語はさらに陰惨な様相を呈していくのである。
力を握ったものによって片隅に追いやられ虐げられたものたち──。
『水無し川かげろう草子』は、彼らのの怨念の物語を、お伽噺(とぎばなし)や伝説のなかに題材を求めて語ります。
彼らの怨念は、彼ら闇のものたちに権力に挑むための人外の強力な力を与え、さまざまな怪異を現わします。
けれども彼らは、決して権力の表舞台に立つことはありません。
どんなに強力な力を持ったところで、所詮、彼らは闇のもの。
それぞれの個人の怨念を個人の力で晴らそうとするかぎり、彼らが昼の世界の住人になることはないのです。
対象的な二人の闇のもの、酒呑童子と金時の造形が傑出しています。
特に、酒呑童子の虚無の思いが切(せつ)ないのです。
酒呑童子も金時も、二人とも凄まじい術と力を持ちながら、童子のままの心を持っていて、それこそが彼らの悲劇なのかもしれません。
金時はもともと、素朴な山の精──といっても山も怒ると恐ろしいのですが──のような存在ですし、ありようは悪辣(あくらつ)窮まりない酒呑童子も、心はいとけない童子のままなのです。
だからこそ彼らは、おとなの心でかけ引きしながら生きていかねばならない昼の世界には立てない闇のものであり、鬼として生きなければならない宿命を負っているのかもしれません。
金時は、中央に攻められて恨みを呑んで死ぬことになった父、平将門のため、沙羅の言いつけどおり都をしばし騒がせます。
けれども、闇の一族としてはあまりにあっけらかんと豪放な性格の彼は、自分自身のなかに怨念の思いを抱いているというわけではありません。
自由に生きたいと願った金時は、闇の世界を捨て、かわいいと思う心のままにこどもの頃の源頼光に仕え、昼の世界に生きようとします。
打ち捨てられたあばら屋で、彼を産むと同時に亡くなった母、倫子の身体から流れ出る血をすすり、嬰児の時代の何日間かを生き延びた酒呑童子。
陰惨窮まりない生い立ちにも関わらず、彼は、比叡の山に奔放に育ちます。
けれども、彼もやはり闇の子です。
比叡を出奔した彼が自由に生きるということは、やはり、闇の世界に悪事を重ねて生きるということになるのです。
彼の悲劇は、闇のものとしての確固とした目的を持たなかったことかもしれません。
酒呑童子の心のなかには凄まじい虚無の思いが潜んでいて、それが表に現われたとき、彼にとって、すべては──自分の生命すらも、顧みるなんの価値も持たないものになってしまうのです。
このために彼は、彼が慕った海賊、藤原純友(ふじわらのすみとも)の、明るくて豪放磊落な優しさを失うことになりました。
そして以後、彼の生はいっそう陰惨なものに変わることになるのです。
闇の世界に生き続ける酒呑童子と昼の世界に身を投じた金時と──。
やがて闇の血の繋がりに引かれるように、二人の対決のときはやってきます。
すべてのことが始まった水無し川へと戻った酒呑童子が、虚無の思いにさいなまれながら、それでも闇のものとして生きていこうと陽炎(かげろう)のなかに消えていく終章は、物悲しくも不思議にすがすがしい読後感をもたらしてくれるものでした。
今のところ、この物語はこの一冊しか出ていませんし、続編が書かれる兆しもないようですが、この先も連綿と続くであろう闇の系譜の物語を、是非とも見てみたいものだと望んでやみません。