奥州の平泉を訪れた“私”。
そこで私は、年の頃は六十代らしい、酷(ひど)く大時代めいた荘重な雰囲気のタクシーの運転手に観光案内を頼むことになった。
客を相手に随分大胆不敵な意見を述べるおもしろい運転手を、私はやがて、八百数十年前に平泉の藤原政権を起こした藤原清衡(ふじわらのきよひら)であると見抜く。
清衡は、仙人になる方法の一つである尸解仙(しかいせん)を遂げて、この長い年月を生き続けて来たと言うのである。
彼の感慨深い話を聞きながらさまざまな観光名所をまわった私だが、清衡は金色堂にだけは一緒に行こうとしなかった。
参道の麓(ふもと)のそば屋で、一人ビールを傾けて私を待っていた清衡は、自分がその本来の持ち主でありながら、鉄筋コンクリートの覆堂で覆われ、さらにガラスで囲われてしまった金色堂に、もはや入ることができなくなってしまったと嘆くのである。
『唐草物語』は、サディズムという言葉の由来となっているサドの小説の紹介者として世に現れて以来、ファンタジーめいた味わいのあるさまざまな奇譚を紹介し続けた澁澤龍彦の短編小説集です。
膨大な資料の山のなかから漂い出して来た観念を綴り合わせたような眩惑的な物語群の、どこまでが創作で、どこまでが史実であるのか、私などには計り知ることもかないません。
表の世界では押し隠され、無視され続けてきた、けれども、ちょっと意識の奥深くを探ってみれば、誰の心の奥にも結構潜在している捩(ねじ)くれた意識のずれ……。
澁澤龍彦の仕事は、そんな倒錯したエロスを活字にして白日の下にさらけだし、窮屈で規範的な常識に風穴を開けてくれました。
そうした仕事の延長上にあって『唐草物語』を始めとした数々の小説は、奇妙で千変万化な人の心のありようへの限りない愛情が創造した新しい奇譚なのです。
ときが経つとともに、これらの物語は、著者が博識を誇って披露した知識の群のなかに埋もれてしまって、著者と同じような資質の持ち主によって、後世、事実とも創作ともつかない奇譚として紹介されることになるのかもしれません。
事物そのものよりも、純粋な形そのものの美しさを愛したフィレンツェの画家パオロ・ウッチェロの物語。
何も言わないまま、そして、何も気づかれないまま餓死してしまうセルヴァッジャが哀れです。
蹴鞠(けまり)に取り憑かれ、鞠とともに飛翔することを願った平安貴族、大納言成道の物語。
鞠の精の三人の童子とともに空に舞う、少年時代の成道の姿が楽しい。
朱雀門(すざくもん)の楼上で、鬼と双六(すごろく)の勝負をして、勝負のかたに絶世の美女を手に入れた紀長谷雄(きのはせお)が、百日の間この女と交わることを禁じられて煩悶(はんもん)するさまを、丁寧に面白おかしく語る物語。
これだけ忍耐した挙句の果てに……の展開がおかしいのです。
日本の中世に、ヨーロッパ中世に流行したと同様の死の舞踏を興行するマカベの虚と実をユーモラスに描く物語。
笛を吹いて死の踊りを賞揚(しょうよう)する骸骨のような外貌のマカベの姿が利いています。
美貌の王妃との関係を疑われることを恐れて、自らの手で自らを去勢する、やはり美貌の建築家コムバボスの物語。
作中で語られる去勢への考察が、まさしく澁澤龍彦のイメージです。
中央アジアから西アジア一帯に掛けてを征服した征服者ティムールの、チンギス・ハーンへの対抗意識を描く物語。
秦(しん)の始皇帝(しこうてい)のために、不老不死の薬を手に入れるべく、蓬來山(ほうらいざん)を捜して船出する徐福(じょふく)。
ひどく俗っぽくしたたかな山師として描かれる徐福と、その行く末の姿が、いかにも、“らしく”ておかしいのです。
これら、『唐草物語』に収められた十二の短編小説は、舞台と時代を縦横無人に切り取って、飽きさせることがありません。
著者には、他にも同じような味わいの短編小説集『ねむり姫』、『うつろ舟』などがあります。
『唐草物語』よりも後に編まれたこれらの短編集は、作者の晩年の興味を反映して、舞台は日本に限られ、時代背景も平安時代から江戸時代にかけてが選ばれています。
さらに美しく洗練されて、古雅に枯れた透明な語り口がサラリと明るいユーモアを漂わせ、残酷なエロスの匂いのなかにも何か楽しい読後感が残ります。
作者の初期の小説集としては、『犬狼都市(キュノポリス)』が手に入れやすくてお薦めです。(現在、この本は入手困難です。)
これには、「犬狼都市(キュノポリス)」、「陽物神譚」、「マドンナの真珠」の三つの小説が収められていますが、わたしは「マドンナの真珠」が気に入っています。
亡霊たちを交えて遊ぶ「かごめかごめ」の不毛の悦楽。
ヨロイガニの不気味な交尾。
海の中に、文字通り一本の巨大な赤い帯となって地球を取り巻く、幅十五メートルはあろうかという赤道。
不気味にエロティックな雰囲気のなかにも、やはりどこか、そこはかとないユーモアを感じさせる作品です。
小説ではなくて、随筆、エッセイの類(たぐい)のものも、澁澤龍彦の数々の著作の味わいは、すべてファンタジーに通じる、目眩めく読後感を与えてくれるものです。
東西に共通する奇譚を、思いのままに綴り合わせて語る『東西不思議物語』。
さまざまな幻獣を紹介する『幻想博物誌』。
魔術や悪魔について紹介する『黒魔術の手貼』……等々。
澁澤龍彦のこれらの著作は、手に入れやすい文庫本で相当数が刊行されています。