ある身分の高い家に仕えている人が江戸へ詰めているとき、自分を刺した虱(しらみ)を捕まえて、これを紙に包んで屋敷の台所の割れ目のなかに押し込んでおいた。
男は役目を終えて国へ帰ったが、三年の後(のち)に、再び当番の年がきて、江戸へ行って勤めることになった。
このとき、虱のことを思い出して、男が台所の柱からこれを取り出してみると、虱は紙のように薄くなってはいたもののまだ生きていた。
おもしろがって皆に見せているうちに、虱は男の手の平を刺した。
その喰い跡はだんだん大きくなり、いろいろ治療したが直らず、ついに、そこから腐って男は死んでしまったのである。
一里も離れたところに住んでいる男のもとへ、毎夜通っている女がいた。
恋をしていた女は、もの寂しい夜の道を恐ろしいとも思わなかったのである。
女がある夜、潅漑(かんがい)用水の溝を渡ろうとすると、いつも使っていた橋がない。
どうしたものかと、溝のあたりをうろうろしているうちに、死体が溝のなかに横たわっているのを見つけて、これ幸いと、女は死体を橋の代わりにして溝を渡ることにした。
すると、この死体が女の着物の裾をくわえて放さない。
これを強引に引き剥がし、溝を渡ってしばらく歩き続けたのだが、心のない死体がどうしてあんなことをしたのか不思議でたまらない。
引き返して、わざと後ろの裾を死体の口に入れ、胸板を踏みつけてみると死体はこれをくわえ、足を上げると口を開く。
やはり死体に心はないのだと納得して男のもとへ行き、このことを自慢したところ、驚いた男に女は捨てられてしまったのである。
禅宗のお寺の霊宝にしていた硯が割れて、なかから、栗につく虫のようなものが出てきた。
庭の蓮池にこれを投げ入れたところ、これが見る見る大きくなって、竜になって天に昇って行ってしまった。
へたくそな能楽師万吉太夫が、化けものの出るという茶屋に泊まった。
はたしてその夜、彼の前に恐ろしげな化けものが現れる。
しかし万吉は、自分も京から来た化けものであると偽って、出てきた化けものと化け比べをする。
彼は持っていた能の衣装をとっかえひっかえ着て見せて、化けものに勝ってしまったのである。
『江戸怪談集』は、江戸初期の十一種の怪談集から、編者が取捨選択した作品三百編ほどを紹介するものです。
一編の長さは数行からせいぜい数ページまでですが、現在行われている怪談話の原形のほとんどをこのなかに見ることができます。
さすがに“口裂け女”や“タクシーに乗る幽霊”といったお話はありませんが……。
こうした江戸時代の怪談は、文学的には後(のち)の上田秋成の『雨月物語』、 『春雨物語』あたりで完成を見るのでしょうし、また、嗜虐的(サディスティック)でおどろおどろしい鶴屋南北“四谷怪談”などといった作品、さらには小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の仕事などにもつながっていくわけなのですが、雑多にいろいろなお話に接することができるという意味で、この作品集を選んでみました。
“天狗”、“鬼”、“猫又”、“狐”、“狸”、“蜘蛛”、“蛇”といった、私たちの馴染(なじ)みの妖怪たちも大活躍します。
それにしても、女の嫉妬から出る怪談話、虐げられた女の幽霊となっての復讐話が非常に多いのには考えさせられます。
この手の話が数多く出てくる背景に思いをいたすと、当時の女の置かれていた状況が浮かび上がってくるようです。
封建的な身分社会のなかで、男よりさらに一段下に置かれて、女はただ耐え忍ぶことが美徳とされていた時代です。
抑圧されて発散することのできない恨みつらみをはらすためには妖怪変化にでもなるよりほかはなく、それを夢見て、こうしたお話に快を感じる女も少なからずあったのでしょう。
女に抑圧を強いる男の側にも、意識するとしないとにかかわらず加害者としての潜在意識があって、無意識のうちに、女たちが抑圧の鎖を引きちぎって彼らに向かってくるときがくるのを恐れていたのかもしれません。
そして、非現実へ逃げないで、現実のなかで本来の姿を見せて生きようとすれば──、若しくは、誤ってその本来の姿を見られてしまえば、ご紹介した「女は天性肝ふとき事」の女のように、男に捨てられ疏(うと)まれて生きていかなければなりません。
こうした女たちは、恨みつらみの幽霊と同様、怪談話の種となってしまうわけです。
「女は天性肝ふとき事」には、元来、女は男より度胸があるものだが、これを隠して恐がって見せるのが女らしくてよいものだという、賢(さか)しげなお説教がついています。
彼女が男であったなら、あっぱれな勇者として誉められこそすれ、けなされることなどなかったでしょうに……。
ちょっと気持ちは悪いのですが、私などには、この女の合理的で勇敢なところが快感です。
日本の歴史は、時代が進むに従って、次々と女の持っていたものを男が奪い取ってきた歴史です。
現代になって、ようやく女も自分の主張を通すことができるようになってきたわけで、女にとっては喜ばしい時代になりつつあるのですが、既得権を失いつつある男にとっては、これは、腹立たしくて辛いことかもしれません。
でも、男性も、“男らしさ”という言葉に縛られることを断ち切って、自然に自分らしく生きることを考えてみれば、もっと、自由で楽しい生き方ができると思うのですけれど……。
無理して男らしく振る舞うのってくたびれません?
まあ、男も女も、幽霊になって化けて出たり出られたりしないよう、本当の心を押し隠して別の自分を装ったり、他者にひどいことをしたりしないで生きて行けたら理想です。
江戸時代とは違うはずの現代でも、そうして生きていくのがなかなか難しいのは悲しいことです。