白人のガソリンスタンドで働くウィランは、大地に異常が生じていることに気がついた。
暑い真夏に各地で氷が張った……。
各地でそんなことが起こっているとニュースが伝えているのである。
何の力も持たない、まだ一人前のおとなになってもいないウィラン。
しかし彼は、大地に命じられるままに、土の族(やから)の勇士(ヒーロー)コー=インに会って“魔力”の玉を手に入れ、大地の異常を正す使命を帯びることになる。
真夏の氷は、西の地から移動してきて勢力を拡げようとするニンヤたちの仕業だったのだ。
そんなニンヤたちにとっての一番の驚異は、火の力を持つ岩の怪物“始祖ナルガン”だった。
ニンヤたちは、ナルガンを捜して倒そうとしているのである。
ウィランは、始祖ナルガンをニンヤたちの手から守り、ニンヤたちを元のあるべき地に戻さなければならない。
ウィランと探索の旅を共にするのは精霊のミミである。
枯れ木に手足といった身体つきをした彼女は、風のために故郷から遠く吹き飛ばされてきてしまったのである。
大地人や、内陸人、そして精霊たちの助けを借りながら困難な旅を経て使命を果たしたウィランは、精霊たちや大地人の間で“氷の覇者”の名前を担(にな)うことになる。
オーストラリアの大地はすべて彼に与えられたのであった。
しかしウィランには、自分にそれだけの力があると信じられなかった。
彼は“魔力”をもともとあった岩のくぼみに戻し、ホテルの下働きの仕事を見つけて都会の生活へ帰っていった。
しかし都会に帰ったウィランには、つきまとって離れない歌声があった。
川の歌姫ユンガムラの誘惑の歌。
サイクロンのために故郷から遠く引き離されて、洞窟のなかに閉じ込められたユンガムラがウィランに救いを求める歌である。
都会の生活に戻って1年が過ぎたころ、ウィランは大地にある水の場所が変わりつつあることを知った。
そして彼は、友人のウララに頼まれ、気が進まないまま再び探索の旅に出るのである。
つきまとって離れない歌声と大地の異常が結びつくとは知らないままに……。
オーストラリアの原住民アボリジニーの伝承世界を背景にしたファンタジーです。
善や悪といった概念とは関わりなく、大自然の万物それぞれの性質のままに振る舞って、自分勝手で恐ろしく、そして、悪気のない無邪気な精霊たち……。
オーストラリアの大地に根差した自然霊としての精霊たちは、私たちの八百万(やおよろず)の神々や、アイヌの人たちが自然のなかに見ていた神々と同質の、多神教の神様たちに他ならないようです。
もっとも、作者はアボリジニーではありませんので、本当にアボリジニーの人々の考えている異界がこのようなものであるのか、ちょっと疑問は残ります。
外国人が語る日本を素材としたファンタジーを読むときに、それがどんなに好意的なものであっても、私たちはなにがしかの違和感を感じないではいられないのですから……。
ともあれ、この物語によって、私たちの前に今までに知らなかった新しい豊饒な神話世界が開かれたことを素直に喜びたいと思います。
アボリジニーの少年ウィランは、オーストリアの人間は次の三つのいずれかであると考えています。
大地の分身である、黒い膚と黒い眉の人々、“大地人(ピープル)”。
年老いた大地を振り返る暇(いとま)のない、幸福を求めて生きることが勤めの“幸福人(ハッピイ・フォーク)”。
幸福人と同じ幹から枝分かれして、長年、大地の働きかけを受け続けた結果、半分大地人のようになってしまった“内陸人(インランダーズ)”。
ウィランの目で見ると、私たちは幸福人と言うことになります。
幸福を求めてより多くの不幸を作り出し、素直に物を見ることを止め、大地に根差すことを知らない幸福人……。
こうした幸福人の生活を私たちは毎日生きていることになるわけです。
この物語はそうした私たちへの問いかけでもあるのでしょう。
物語のなかの謙虚で恥ずかしがりやの大地人たちが、大きな声を張り上げてみずからの意志を押し通そうとしたりはしないのと同様に、とりわけて大きな声でそうしたことが語られているわけではありませんけれど……。
そして、オーストラリアの地では、人間は、大地そのものから生まれたもっとも古顔の種族たちとともに暮らしています。
大地のまんなかで燃える火のなかから、どろどろにとけて吹きだした岩の怪物、ナルガン。
岩のなかに住む恥ずかしがりやの精、ミミ。
氷作りの精、ニンヤ。
川の歌姫、ユンガムラ。
鳥の精、ヨーラック。
土の族(やから)の勇士(ヒーロー)、コー=イン等々……。
それぞれの精はそれぞれの縄張りのなかで暮らし、よそものの精霊の進入を許しません。
例えば、同じ水の精霊同士でも、それぞれの場所にはそれぞれ違った水の精霊がいるのです。
みずからの生い来たった大地にありながら、白人の侵略によって虐殺され、奪い尽くされて、今もなお差別され続けるアボリジニーの人々……。
自分の場所から離れた精霊たちを、あるべき場所に、あるべき姿に戻すのが、この物語を通してのウィランの使命でした。
それならば、白人がこの地にくるまでは、オーストラリアの大地にあるべき場所をしっかり持っていたアボリジニーの人々の今現在のあるべき姿とはいったいどういうものなのでしょう。
そして、あるべき場所から引き離されてこの地に送り込まれた流刑囚や、その後の白豪主義によってこの地に流れ込んできた移民たち――、今では、この地の大部分の人口を占めるに至った白いオーストラリア人のあるべき姿とは?
さらには、近年になって、新しい労働力として嘱望(しょくぼう)されているアジアからの移民たちのそれは?
ちょっと深読みかもしれませんが、そういうことにまで思いをはせてしまった作品です。
最初の冒険で、ウィランと大地人の儀式を助けてくれる内陸人ジョージ・モローが素敵です。
彼は儀式のために薪を集める大地人たちを何も聞かずに手伝い、焚火を見て集まってくる幸福人たちに彼らの儀式が邪魔されないように、口八丁手八丁の法螺話で彼らを追い払ってくれました。
大地人のようにオーストラリアの大地の精霊を見ることはできなくても、大地の呼びかけに耳を傾けることのできるジョージ・モローは、大地に異常があることを知り、それを正すことができるのが大地人だけであるのを知っています。
大地人ではあり得ない作者は、みずからが、こういう内陸人でありたいと思っているのかもしれません。