女神アフロディトの激しい怒りは、悪竜ジラフをかくまう北欧神話の神々へと向けられた。
常夏の炎帝フィールドを脱出したジラフが、アフロディトのこどもたちの水妖(オンディーヌ)を殺したためである。
このままでは、異族の神々が二手に別れて戦う世界的内乱に発展してしまう。
アフロディトの要求するものは、悪竜ジラフの心臓である。上帝の命を受けて地上に降りた天使セラフィは、エーテル界の霊的秩序の壊乱を防がなくてはならない。
神々も天使も悪竜も、彼らは自然界の束縛を超越した変幻自在の存在である。
だから彼らは、無数の時空間に、次々と、さまざまな人物に化身して存在することになる。
学生運動華やかなりし1968年ニューヨーク、コロンビア大学。
第二次世界大戦の影迫る物情騒然の時代、中央アジアの自動車横断に挑むテイヤールのシルクロード。
王権争いへのシーザーのローマ軍介入によって炎上するクレオパトラのエジプト、アレクサンドリア。
シェイクスピアの生きる政情不安な世紀末ロンドン。
そして物語の主な舞台になるのは、内憂外患重なるハムレットのデンマーク……。
何者かに化身して身を潜める悪竜ジラフを追って、アストラル界の検察の天使セラフィは、時空を越えた探索行を開始する。
まず目を引かれるのは、美しくも魅力的に描かれて、ホモ・セクシュアルな危険な匂いの濃厚な数々の男性の登場人物です。
巨大なホンダのモーターサイクルに打ちまたがり、天界を駆ける、猫族の瞳と金色の髪を持つ美しく凶暴な熾天使(してんし)セラフィ。
すんなりした輝く裸身に純白の翼の幼い天使エアリアル。
造化の神の寵愛(ちょうあい」をうけたものだけがそなえる美と、意志と、狂気をおびて、神々しいまでに輝やく残忍な美貌のハムレット。
麻薬の後遺症未だ癒えぬまま、げっそりとやつれ果て、「冷ややかで、なげやりで、それでいてどこかに劇しい何かを秘めている」人間離れした妖しい美貌のホレイシォ。
艶やかに流れる暗く長い髪と東方的な大きく黒い瞳、アラバスターのような膚、卵型の整った貌、忍苦的(ストイック)でどこか深い悲哀をおびたその表情──人間の姿を取った悪竜ジラフ。
『兇天使』は、はやりの少女マンガ風少年愛小説として読んで、それで充分楽しめる作品なのです。
とはいっても、そういう嗜好の作品なので、必ずしも、万人におすすめするというわけにはいかないかもしれません。
シェイクスピアはパトロンのサウサンプトン伯と肉体の関係を持ち、無垢な少年ウィリアム・ハーバート卿を愛しながら、黒の女の妖しげな蠱惑(こわく)の虜となります。
ホレイシォはハムレットを抱き、その婚約者であるオフェーリアを、そして、ハムレットの母ガートルードを抱き、また、ハムレットの義父クローディアスとさえ性愛の関係を持つのです。
熾天使(してんし)セラフィすら、上帝からの使者である幼い天使と関係します。
こうして複雑に交錯する登場人物を描くなかで、それぞれの時代の抱える国家間の対立抗争、複雑な国際関係が語られて、作者の思いの色濃く反映した、過激な無政府主義的な主張が展開されます。
悪竜ジラフの犯した罪とは何なのか。
何故、実在の歴史の狭間にただ一つ、架空の“ハムレット”の世界が舞台となったのか──。
「地上に降りた天使はみな検察の天使(ルシフェール)となる。」
初期に登場する、「幽界から立ちあらわれたような」異様な姿形を備える天使ベルフェゴール。
「竜を追う者は、自らもまた竜となる」──。
目眩(めくる)めく多彩なイメージに翻弄(ほんろう)されて、いささか難解な作者の主張を読み解くうちに、これらの言葉の暗示する驚くべき結末が提示されます。
この時までに把握したと思った物語世界が根底から崩れ落ちてしまう、心地好い敗北感を伴う、一種異様な感動の読後感が残ります。
作者の手になるシェイクスピアの思索の再解釈や、精妙に語り直された“ハムレット”の世界は、たいそう興味深くておすすめです。
もっとも、あんまり強烈なので、原典の『ハムレット』を読まないでこの作品を先に読んでしまうと、ここに縛られて原典の素直な解釈が難しくなってしまうかもしれません
『兇天使』の“ハムレット”の世界で主人公を務める、過酷な生を生きて、その内奥に底知れぬ虚無をたたえる、ハムレットの学友ホレイシォの危険な魅力にまいっています。
淑(しと)やかで女らしい通常のイメージを覆(くつがえ)し、蓮っ葉でボーイッシュ、乱暴な口を利くオフェーリアにはたいへん意表を突かれました。
なお、男性同性愛を、これだけあからさまに、けれども、あまり生臭くなく耽美をもって描くのは、最近ではだいたい女性作者の独壇場なのですが、この作品の作者は男性です。