神と対等の立場に立とうとして神に逆らったサタン。
物語は、神の軍との壮絶な戦いに破れ去ったサタンが、仲間とともに堕とされた地獄の場面から始まる。
荒涼とした暗黒の世界、光を放たぬ火焔の洪水と旋風吹きまくる焦熱の地獄に堕とされて、意気阻喪した悪魔たち──サタンに賛同してサタンの側についたもと天使たち。
彼らに向かって、再び神と戦う意欲を奮い立たせるべく、昂然と頭をもたげたサタンは演説する。
「不屈不撓(ふとう)の意志、復讐への飽くなき心、永久に癒(い)やすべからざる憎悪の念、降伏も帰順も知らぬ勇気」、これさえあれば、自分たちは負けはしない。
天国にあろうと地獄にあろうと自分が自分であるかぎり構いはしない。
天国において奴隷であるよりも、地獄の支配者であるほうかどれだけましなことか──、と。
こうしてサタンは、己れの不安を隠し、意気軒昂なところを見せて仲間たちを励ました。
さて、悪魔たちの会議の結果、彼らは、神が新しく創った“人間”と呼ばれる新しい種族について調べ、これを堕落させることによって神への復讐を果たすことにする。
しかしそのためには、たいへんな危険を犯さなくてはならず、これをなそうと名乗り出るものが誰もいない。
そこで、王座にあるものはその名誉にかなうだけのより多くの困難と危険を引き受けなければいけないものだと、サタンがみずから立ち上がる。
サタンは地獄の門を出て、彼が堕落させるべき人間のいるという“楽園(パラダイス)”を捜すため、“混沌”と“夜”の領域への、危険な探索に旅に向かうのだった。
キリスト教の聖書にその題材を求め、最初の人間であるアダムとイーヴがなぜ罪を犯し、“楽園”を追われることになったかを描く壮大な叙事詩です。
神の側の論理と悪魔の側の論理を対比させた形で物語は進行していきます。
この叙事詩の悪役であり、一方の主役でもあるサタンは、凛凛(りり)しくて、雄雄しくて、しかも、悩み多き揺れ動く心──、いかにも人間的な造形で、かつまた格好良いのです。
威風堂々、他(た)を圧し、堕ちてなお変わらぬ光輝に身を包み、ともすれば絶望の淵に沈みそうになる心を励まして、苦悩のなかから立ち上がろうとするその豪気。
多分、作者の意図とはまったく違うのでしょうが、この物語は、私にとって、偉大なサタンの悲劇的な英雄叙事詩にほかなりません。
そして、私にとっては、サタンに対する神こそが、傲慢で残酷、自分勝手な敵役(かたきやく)です。
完全であるがゆえに、悩みも苦しみも知らない神。
不完全であるがゆえに悩み苦しみ、内なる良心の声に苛まれるサタン。
思うに、自分自身が不完全な悩み多き人間であるがゆえに、悩み苦しみ自由を求めるサタンに、自分と同じ資質を感じて思い入れしてしまうのでしょう。
何故神は、楽園(パラダイス)に禁断の樹の実を置かなければならなかったのでしょう。
そして、人間の心に好奇心を持たせたのも神のはずなのです。
自由意志を持ったものとして人間を創ったと言いながら、絶対の服従を要求する神。
人間を誘惑して“知識の樹の実”を食べさせたサタンが悪しき誘惑者であるのなら、人間を誘惑するものを敢えてその目の前においた神はいったい何なのでしょう。
サタンの開いた道の跡に、地球に向かって“罪”と“死”とが通るべく大いなる橋を架けたのも神の意向に他ならず、それどころか、サタンがその企てを行うべく地獄の門を出られたのも、実は神の計らいのゆえであるというのでは、あまりに神のやりようは酷過ぎます。
サタンは結局、人間を試す道具として、神に使われたにすぎないのです。
そうやって使われたあげく、そのためにさらに神に罰せられなければならないサタンが哀れでなりません。
そして、神によってそう造られた──無垢のまま疑うことを知らぬものとして造られたがゆえに、愚かにも神に対する罪を犯した人間もまたあまりに哀れです。
もっとも、一番哀れなのは、なんの落ち度もないにもかかわらず、サタンにその身体を利用されたがためにだけ、永久に罰を受け続けなければならない蛇なのですが……。
勝手に人間を造りだし、常にその忠誠を要求し、姑息な手段でそれを試し続ける神……。
みずからの正しさを毫(ごう)も疑わない神……。
「人間はすべてがすべて失われはしない。救われんことを願う者は救われるのだ。ただし、その者の内なる意志によってではなく、自由に与えられる、私の内なる恩寵(めぐみ)によってなのだ。」
「わたしは或る者たちを、他の者にもまして選別された者として、特別な恩恵(めぐみ)によって選んだ。それが、わたしの意志だからだ。」
神の言葉は、神の意志がその気紛れによることを暴露しているにほかなりません。
逆らいようもない強大な力を誇るものにのみ許される傲慢です。
ここで描かれるあまりに人間的な神は、なんらかの力を持つことで思い上がって勝手なことをやり放題の、ある種の人間たちと変わりがないように思えます。
そうした人間たちは、往々にして、人々に道徳や秩序を強要しようとします。
その意図を裏読みすれば、即ち、支配者たるもののやることに異議を唱えることのないように、あまり知恵づいたりせず、疑いを持たず、素直に自分の分を守って一生懸命働く良い奴隷になりなさいと、彼らは、そうお説教しているわけです。
こういう神──強者を見ていると、たとえ無益な試みであっても、どうにも逆らいたくなってしまうではありませんか。
サタンは、絶対的な強者の前に諦めてしまって、みずから考えることをやめてしまったりはしません。
そしてサタンは、人間に禁断の知識の樹の実を食べさせることで善と悪とを知らしめて、自分と同様、人間にも、考えること、知ることを教えます。
「もし知識をえた暁には神々と等しく高くなることを恐れて、彼らを低き者にしておこうという策謀から仕組まれたあの猜忌(さいき)にみちた禁令を、拒否させてやろう。」
サタンは、人間の美しさ、幸福な様に心打たれ、この幸福な生き物に愛さえ感じて、彼らをみずからの手で不幸のなかに落としめることをためらいました。
けれどもサタンは、人間が神によって知識を禁じられ、そのことによって──無知であることによってのみ服従と忠誠の証が立てられるとする神の論理に疑問を抱いたのです。
強大な力の前にどんなに打ち負かされても、一縷(いちる)の望みを求めて、己れ自身の考えに従い、みずから立とうとすることをやめないサタン。
彼は、全能の絶対者である神に対して、我が身をもって果敢に挑戦を続けます。
もともとが、神の寵愛を受けていたサタンです。
強大な支配者の下で、その意を受けることに心を注ぎ、それなりの幸せを追い求めるほうがどれだけ楽であったか知れません。
飼い慣らされた奴隷の幸せを選ぶか、不幸せであっても、みずからの意志を持った一個の存在としての誇りを取るか──。
やっぱり『失楽園』のサタンは理想の英雄の一つの姿に思えます。