ときは一万二千年ほど昔、ハイボリア文明の時代である。
アトランティスは沈んだ後(あと)で、現代の私たちにつながる文明はまだ始まっていない。
現代のような技術文明こそないが、ハイボリア人の王国にはかなり発達した文明があり、大きな都市が栄えている。
コナンは、こうした文明の及ばない北方に住むキンメリアの蛮族の鍛冶屋の息子としてこの世に生を受けた。
大熊の腕力と豹の敏捷(びんしょう)さを秘めた筋骨逞しい体駆、黒い総髪の下に青く光る鋭い目……。
彼は野生の知恵と野獣の逞しさを持って十代の頃から各地を放浪し、盗賊家業などのあまりまっとうでない商売に手を染めながらさまざまな冒険を繰り広げる。
そして、ついには、ハイボリアの王国の一つ、アキロニアの王にまで成り上がるのである。
物語は、そうしたコナンの冒険のなかでも、彼が出会った魔の世界の住人とのエピソードに重点をおいて語られる。
邪悪な魔法使い。
異星から来た異形(いぎょう)の神。
戦士を死へと導く氷の姫。
永遠の倦怠を生きる幻の都。
異様な姿と力を持った妖異のものども……。
さまざまな怪異が彼の前に現れる。
彼は野蛮人の性(さが)として、真実恐怖しながらも、力と知恵をもってこれを切り抜け、さらには、その冒険行に同行した美女たちの愛を勝ち得るのである。
作者は実に見事に、一個の魅力的な野蛮人の精神をコナンのなかに造形しました。
どんな状況になっても決して命を諦めず、いかなる敵をもその卓越した力と不屈の精神力で捩じ伏せて、世界を思いのままに押し渡っていく蛮人コナン……。
彼は、自分の生命を守るため、また、自分の欲するものを手にいれるために、人をだまし、相当酷いことも平気でやってのけます。
決して悪人というわけではなく、彼なりの行動理念は持っているのですが、コナンには自分を規制する文明人の軟弱な倫理感はないのです。
そしてまた、ひ弱さを微塵も持ち合わせていないコナンは、文明世界の法を守ることで、みずからも法に守ってもらう必要はありません。
当然コナンは無法者(アウトロー)ということになります。
彼の選ぶ最もおとなしい(?)商売は雇兵で、盗人や山賊、海賊になることも厭(いと)いません。
そして、集団のなかにあれば何をやっても、彼らを率いる頭にならずにはおきません。
抜擢されてそうなることもあれば、みずから手段を弄して、強引にその地位を獲得することもあります。
自由人であるコナンは、基本的に人から命令されて動くタイプではなく、また、そうした立場にいつまでも我慢していられる性格ではないのです。
彼自身、年を重ねるにしたがって自分のそういう性情に気づいていくのでしょう。
アキロニアの王になってしまったのも、そうした思いが嵩(こう)じてのことかもしれません。
もっとも、実際に手にいれた王の椅子は、コナンにとっては、窮屈なことをたくさん我慢しなければならない、それほど座りごこちのいいものではなかったようです。
平和な王宮にいるコナンは、欝欝としてあまり楽しくなさそうです。
王国に危機が起こって、みずからが身体を使って動かなければならなくなると、彼はもとの蛮人コナンに戻って生き生きと働き始めます。
現実世界のなかでの自分の弱さが嫌になってしまうとき、すべての枷(かせ)から自由になって、ああした世界で、自分の思いのままに生きてみたいと夢想させてくれる──コナンは、そういう変身願望の理想像です。
こうした野生と野蛮の象徴のようなコナンというキャラクターを造形した作者のハワードは、外見だけならまさしくコナンのような逞しい肉体を持っていました。
ところが彼は、母親の病を苦にして三十才の若さでピストル自殺を遂げてしまうという、最もひ弱な現代人の精神をも持ってしまっていたのです。
コナンは、ハワードにとってこそ、もっとも必要な変身願望の理想であったのかもしれません。
コナンの冒険には毎回必ず異なった美女が登場して、彼と冒険を共にします。
これはつまり、コナンは一人の女への愛を貫けない男ということになるわけで、本来なら、女性読者である私は怒るべきなのかもしれません。
ところが、これがまた、コナンにはとても自然なことに思えて、ちっとも怒りが湧いてこないのです。
こういう男は、女なんかに縛られず、いつも自由でいてほしいとさえ思ってしまうのです。
彼にかかわる女たちがただ従順なだけの女ではなく、自分の意志を持ってしっかり生きている女たちばかりのためもあるのでしょう。
コナンはそうした女たちを自分の意のままにしようとするのではなく、ちゃんとその生き方を認め、賞賛することができます。
そうする余裕を、肉体的にも精神的にも持っているのです。
《コナン》のなかで描かれる男と女の関係は、きちんと自立している男と女の関係なのです。
「なぜ、あたしが男の生活をしてはいけないのか、それがおかしい!」とじだんだ踏んで悔しがるアキロニアの海賊“赤い兄弟たち”の首領ヴァレリア。
助けた礼金を支払ってもらうことを断わり、いずれ王となって五万の兵を率いて王国を貰いに行くと言うコナンに、「では、わたしは十万の軍勢を率いて、ジュムダ河の岸で迎え撃つとするわ!」と王者の威厳を持って対し、彼の目に賞賛と感嘆の色を浮かばせるヴェンドゥヤ王国のヤスミナ姫。
“アルクメーノンの宮殿”での大冒険の末に、彼女を助けたために、ようやく手に入れた“グワールルの歯”を失うことになったコナンに、
「みんなあたしが悪かったのよ。──、さっき橋から落ちたときも、あたしを捨てて、宝石筐をつかめばよかったのよ」と言って泣いたムリエラ。
印象に残る素敵な女たちです。
コナンの物語は、年代順にきちんと並べて書かれたわけではなく、たぶん作者の興の赴(おもむ)くままに、まったくばらばらに書かれて発表されました。
なにしろ、コナンが王になってからの、ほとんど最後のほうの話が一番最初に発表されたくらいなのです。
このためこの物語は、後(のち)にいろいろな編者によって年代順に並べ直されて、たくさんの版が出ています。
日本語版も、原本の違う早川版と創元版の二種類が翻訳されて読者を楽しませてくれたのですが、早川版は絶版になってしまいました。
現在手に入れることのできる創元版《コナン・シリーズ》は、未完である上、ハワード本人の手になるものと、ハワードの死後、ハワードの未発表の原稿に他の人間が手を加えて完成させたものや、新たに書き起こされた偽作が入り混じり、しかも、オリジナルにも若干手が加えられていて、それを明記していないという欠点があります。
純粋にハワードの手になるものとそうでないものとでは、コナンのイメージにかなりの違いがみられます。
コナンの時代と現代をつないで創造力をかきたて、物語をいっそう感慨深いものにしてくれるハワードの書簡「ハイボリア時代」の後半も、未訳の部分に入っているらしく、読むことができません。
お話とお話の間に注釈を入れてきちんとつないであるので、早川版《英雄コナン・シリーズ》より、こちらのほうが読みやすくて、取りつきやすくはあるのですけれど……。
創元版では、次のものが純粋にハワードの手になるものです。
「象の塔」、「石棺のなかの神」、「館のうちの凶漢たち」、「氷神の娘」、
「黒い海岸の女王」、「消え失せた女たちの谷」、「黒い怪獣」、「月下の影」、
「魔女誕生」、「ザムボウラの影」、「鋼鉄の悪魔」、「黒い予言者」、
「忍びよる影」、「黒魔の泉」、「血の爪」、「古代王国の秘宝」、
「黒河を越えて」。
コナンが王になってからのお話が未訳のままになっています。
つまり私たちは、コナンの記念すべき第一作を読むことができないという、悲しむべき現状にあるというわけです。
2006年、創元文庫から《新訂版コナン全集》の刊行が始まりました。
これは、「原典に忠実な版を作ること」を目的に、未完成のものも含めて作品はすべて原典に忠実な翻訳に戻し、さらに草稿やエッセイ、書簡などまて収録するということで、ハワードのコナンの真の姿を知るためには、多分、この版が最適なものになるのではないかと思われます。
「これでようやく……」と、非常に楽しみo(^-^)o