書籍データは持っている本のものです。現在最新のデータではありません。
『太字斜体』の見出しは書籍名、「太字」の見出しは単行本収録の作品名です。
「斜体」は引用です。
思考が追いつかない(^^ゞ |
「断章三」と「断書四」の、自らをノルルスカインともサーチストリームとも名乗ることのないダダーが大好きなのに、他の巻のダダーのノルルスカインやサーチストリームには魅力を感じない。
フェオドールのストリームは好きだけど(^^ゞ
どうして各巻ごとのダダーの印象がこんなに違うのだろうとはずっと思っていたのだけれど、今回、『羊と猿と百掬の銀河』を読んで、どうも今までのダダーについてのわたしの読みが間違っていたのではないかと思い始めている。
ダダーのノルルスカイン自身が、「コピーを作ったり、他の存在と意識を融合させてアップデートしたり」「本意識流(メインストリーム)にフィードバックを返すことができ」て、そのすべてのストリームを同一の自分自身であると認識しているのと同様、読者としてのわたしも、すべてのノルルスカインのストリームを人間の観点から見た同一人物であるように思って読んでいたのだが、これは大間違いで、すべてのノルルスカインの意識流(ストリーム)が同一性を持った一個体であるとは考えないほうがいいのではないか。
すべてのノルルスカインのストリームが常にフィードバックできる環境にあるわけではない以上、さまざまに分岐していったノルルスカインの意識流が孤立した状態のまま、それぞれに違う体験を経て、それぞれに大きく違う個性を持って、無数に存在しているのが、《天冥の標》の世界の現状なのではないか。
「個としてのノルルスカインが、われはわれなり、という意識の同一性を保ったままでこれほど続いたのは、奇跡以外の何物でもなかったといえるだろう。」
「ストリーム制を持つノルルスカインは、数多くの自分自身のあいだで変異と適応と淘汰を続け、例外的に長く生き延びた。その代償は原型をとどめないほどの変化だった」
空間的にあまりにも広がりすぎたための物理的制約の故もあって、ノルルスカインのすべてのストリームが同じ情報を共有できるわけもなく、さらには、「鰥寡(かんか)の孤体(こたい)の生ぜぬように」「情報レベルを均一化させる」という、「断章五」のオムニフロラ側の希少な肉声と思われる言葉を考えると、オムニフロラとは対極にあるのではないかと思われるノルルスカインは、上位のストリームが下位のストリームの情報を制御していることも考えられる。
上位のストリームと下位のストリームでは能力差もあるだろう。
こうして考えると、例え同じ流れの中にあっても、上位のストリームと下位のストリームが同じことを考えているとは限らないのではないか。
* * *
そうしていくつかのストリームを分けて考えてみたとき、『メニー・メニー・シープ』の、やたら陽気で「うふふ」「ふふふふ」言っているノルルスカインの姿は、『羊と猿と百掬の銀河』で初めて具体的に垣間見えた、オムニフロラに寄生されてしまった人間たちの姿と重なるようで恐ろしい。
『メニー・メニー・シープ』のノルルスカインは、「シェパード号の中枢を制御しているコンピューター」の中で走っているソフトウェアということになっているが、メニー・メニー・シープにドロテア・ワットがあることを考えると、これは『アウレーリア一統』でミスチフと戦い、ミスチフを「電子演算的な大激戦のすえマットにねじ伏せて黙らせ」て自らは消滅したように見えたフェオドールのストリームの残滓であったりするのかもしれない。
遙かなる昔、ミスチフと一緒にオムニフロラの中に取り残されたストリームの存在も気に掛かる。
このような、オムニフロラの中に取り残されてしまっているのではないかと思われるストリームは、オムニフロラに完全に取り込まれてしまっているのだろうか。
それとも、オムニフロラの中で、まだ抵抗を続けていたりするのだろうか。
「断章五」を読む限りでは、オムニフロラに寄生された人間の奇妙な笑いは、オムニフロラの要求と宿主である人間の意識の乖離を埋めるためのものであり、乖離が大きければ大きいほど笑いも大きくなるようだ。
だとしたら、よく笑うダダーはそれだけオムニフロラに対する抵抗感が大きいのではないかとも考えられるのだが……。
さらには、メニー・メニー・シープのノルルスカインがこうした起源を持つものであるのなら、このストリームは「断章四」のダダーが羊のリソースを使うことを考える以前に分岐したことになるわけで、メニー・メニー・シープの羊たちの中に「断章四」のダダーが潜んでいるのを知らないのかもしれない。
* * *
メニーメニーシープが、その住民が思っているような植民惑星ではないのは確かだろうが、その時代、地球がどうなっているのかも気に掛かる。
地球から来たというアッシュとルッツも、妙に陽気でなんだかずれている。
この二人がコーヒーを「記録でしか見たことがない」というのも、「芸術や娯楽や幸福などについて」「配慮」しないオムニフロラが地球を取り込んでしまったからだと考えると符合する。
* * *
「断章二」では「普通の羊より妙に賢く活発で、繁殖力が強い」とされるオビス・キュクロブスが、「断章五」では、「一般的な羊、オビス・アリエスに繁殖力では劣ったものの、賢くて扱いやすかった」となっている記述の矛盾には何らかの意味があるのだろうか?
* * *
「種を尊ぶが個は侮る」オムニフロラに対して、ノルルスカインは個は尊ぶが種は侮るのだろうか。
ならば、ノルルスカインがオムニフロラに勝利したとき、ノルルスカインが人間に見せる未来に、わたしは共鳴できるだろうか。
* * *
謎は増えるばかりで、わたしの思考は追いつかない。
「第六巻」ではいよいよ石工(メイスン)、あるいは《休息者(カルミアン)》が地球人類の前に姿を現すことになると思われますが、《天冥の標》は、またまた、今までのわたしの読みを根底から覆すまったく違った姿を現すのでしょうか。
楽しみ〜〜っ(⌒〜⌒)
静かに不思議を楽しめた(⌒〜⌒) |
3.11の後、精神のバランスが崩れたようで、ほとんど本を読めなくなっていたわたしが、震災の後、初めて読み通すことが出来た新刊書がこれでした。
悲惨な事件もなく、大きな感情の振幅もなく、ただ、不思議で魅惑的な光景を静かに静かに垣間見せてくれるこの小説は、わたしの心をちょっとだけ慰めてくれたのです。
* * *
同一人物に思えるけれど本当にそうなのかがもうひとつ定かでない、頭頂部の薄い、黒縁のロイド眼鏡の慇懃な主(あるじ)がもてなす、同じに見えてそれぞれ微妙に違う酒場をおとなう、一編ごとに異なる主人公たちが目の当たりにする不思議の数々……。
「〇 車軸――遠い響き」と「三 雲海――光の領分」だけは、はっきり時間軸が繋がっていると思うのですが、あとのお話はどうもよくわかりません。
「先代」、「先々代」、「それより昔の主」、「店が出来た時のことなんざ、話が古すぎてわかりません」などという言葉が散見されて、もしかするとこの小説の主(あるじ)なる人物は何代にもわたる違う人間で、収録されている短編は一本の時間軸に並べてみることができるのかなぁ、だったら、どう並べたらいいんだろう? なんて、パズルをひもとく気分でアプローチしてみたり、いやいや、これはすべて、単純に、それぞれに違うパラレルワールドでのお話と受け取ってしまってそれでいいのかも…… なんて考えてみたりして、楽しむことができました。
もしかすると、この酒場の主はたくさんのパラレルワールドの酒場をひとりで仕切っている結節点のような存在で、複数のパラレルワールドをおとなう複数の客を一時(ひととき)にもてなすようなこともしていて、それで、「「お客さん。そう、そっちの女の人」――略――他のテーブルには誰もいないのだが、それでもこんな言い方をする。」なんてことが起こるのかもしれません。
もっともこれは、本当は、そんなことは考えないで、ただただ、それぞれの不思議を楽しめばいい、そんな小説なのかもしれないのですけれど。
(2011年4月1日のブログに書いた文章にちょっと手を加えたものです。)
ホラーの味が苦手(>_<) |
人は誰もが心に醜い部分を持っていて、そうした心を持った人間たちが作る社会の中で生き抜くためには、切ない憧れを希求する哀しくも優しい人々も、誰も綺麗なままではいられない。
人の世界を離れて、心を持たずにただあるだけの厳しくも美しい自然の中に生きようとしても、そこに人が心を持ったまま入り込もうとすると、やはり何らかの齟齬が生じてしまう……。
* * *
この著者の作品には精神的、生理的に受け付けかねるところと、非常に心地よく安住してしまいたくなるところが共存するため、この小説でもやっぱりアンビバレントな読後感を抱えることになってしまいました。
わたしはホラー小説が苦手で、それは何故かというと、ホラー小説の多くがえぐり出してみせる、人の心の嫌な部分に拒否反応を起こしてしまうためなのです。
どんなにグロテスクで血なまぐさい小説でも、人間の嫌な部分を見せつけられるようなものでなければ結構大丈夫なのですが(^^ゞ
というわけで、この作品、強すぎるホラーの味がせっかくの居心地のよさそうな異界に浸りきることを許してくれない、わたしにとっては残念な小説ということになってしまいました。
もっと厳しく現実を見つめなきゃってことなのかもしれないのですが、わたしの読書は基本的に現実逃避のためのものなので、小説の読後感はやっぱり気持ちのよいものであって欲しいと思ってしまいます。