遥かな過去の地球、“中つ国”の一角のホビット庄には、ホビットというこびとの種族が住んでいた。
彼らは変化を好まない保守的な一族で、自分たち以外のものとはあまりつき合わず、彼らの小さな世界のなかだけで、ぬくぬくと平和な暮らしを楽しんでいだ。
こうしたホビットのなかで、ビルボ・バギンズは変わり者として知られていた。
彼は若い頃、外の世界に冒険の旅に出かけ、ホビット庄に落ち着いている今でも、外の世界の大きい人たち(人間のことを彼らはこう呼んでいる)やドワーフとつき合っているのである。
しかしビルボは百十一歳になったとき、盛大な誕生祝いの席から不思議なやり方で姿を消して、再びホビット庄の皆の前に姿を現すことはなかった。
ビルボは今度は、帰らぬ覚悟でホビット庄を後(あと)にしたのである。
ビルボのお気に入りの従兄弟(いとこ)で、今では彼の養子になっているフロドには、彼の全財産と不思議な指輪が残された。
それは、ビルボが昔冒険の旅から持ち帰った指輪で、これをはめたものは姿を消すことができるのだ。
しかし魔法使いのガンダルフは、フロドに、指輪についての恐ろしい事実を明かす。
この指輪は、かつて冥王サウロンが世界を自分のものにするために作った指輪であり、サウロンの手にそれが戻れば、彼は完全に力を取り戻し、世界は暗黒の支配するところになってしまうというのである。
指輪をこの世から消してしまうためには、これをサウロンの領土にある火の山オロドルインの“滅びの亀裂”に投げ込むしかない。
サウロンが世界を支配するために人間世界に仕掛けた戦争も、すでに始まりつつあった。
指輪はその持ち主に影響を与え、徐々に持ち主を闇の世界に引き込んでいく。
特に指輪を指にはめるたび、持ち主は引き伸ばされたようになってその存在が希薄になり、寿命が延びるとともに闇の世界のものへと変わっていくのである。
そしてまた、指輪はそれ自身の意志を持っているかのように持ち主を選ぶのだ。
そのため、持ち主として指輪に選ばれてしまったフロドが、指輪を運ぶ危険な旅をするしかないのである。
彼を慕う庭師のサム、そしてメリーとピピンを伴って、フロドの危険に満ちた困難な旅が始まった。
ひたすら“フロドのだんな”を慕い、フロドのために危険のなかに飛び込んで勇敢に彼を守って戦うサムが、私の思い入れした登場人物です。
最初は、ただエルフ(妖精)を見てみたいというだけの目的でフロドについて旅に出る、たいへん地味な存在なのですが、彼のごくごく普通人としての勇気ある行動が好ましくて、私は彼と一緒に、この困難な旅を成し遂げたのです。
ミーハーしているのはアラゴルンです。
最初にフロドたちの前に現われたアラゴルンは、うさんくさい野伏(のぶせり)の姿をしていて、フロドたちは、なかなか彼のことを信じようとしませんでした。
アラゴルンは、冥王に滅ぼされた王家の末裔(まつえい)で、野伏の首領にその身をやつし、人々から厭(いと)われながらも、人知れず、その人々を見守り、闇の力の侵略から彼らを守り防いでいたのです。
無口で言い訳をせず、逆境に耐え、どんなに困難であってもやるべき事に果敢に立ち向かっていくアラゴルンは、人間の一つの理想の姿と言えるでしょう。
いつもは決して自分の出自を誇ることもなく地味に控えているのですが、それだけに、彼がその本来の姿をかいまみせる時の輝きが、たいそう素晴らしく映ります。
魔法使いのガンダルフは、長年の知恵を貯えた、頑固だけれど良いおじいさんといった感じの外見と性格で、思わずなついてしまいたくなる人物です。
エルフは、夢のように美しい、滅びゆくものたちで、ミーハーの対象にぴったりのようにも思えるのですが、あんまり活躍してくれないのが悲しいところです。
物凄く長生きをする連中で、彼らの家庭生活など考えるとなかなかおかしいものがあります。
ビルボに指輪をだまし取られて、指輪を取り戻すために、どこまでもどこまでもフロドたちの後(あと)を追ってくるゴクリも、印象的な登場人物の一人です。
生きているものは何でも火を通さずに生のままで食べる、半分カエルのような気味の悪い生き物なのですが、ひたすら“いとしいしと(指輪)”を取り戻すためにどんな苦労も厭(いと)わない涙ぐましい努力は、いじらしいとすら感じられるほどです。
そのほか、父親であるゴンドールの執政職デネソールに厭(いと)われて、休む間もなく次々と危険な任務に送り出されながら黙って耐えているファラミア。
辺境国王セオデンの娘、盾持つ乙女エオウィン姫。
そして、愛する主人のために頑張るけなげな馬たち……。
たくさんの印象深い登場人物が描かれます。
こういった人々を中心に(本当は、もっともっともっとたくさんの人物が登場するのですが)、
『指輪物語』は、指輪を運ぶフロドの困難な旅と、サウロンの軍勢と戦う人間たちの物語が交互に語られる、壮大な叙事詩のようなお話です。
根底に移り変わる時間と時代を見据え、たとえ勝利しても、結局はこの世界から立ち去っていかなければならないものたちの物語は、いささか物悲しい語り口で語られて胸迫るものがあります。
この小説の背景には、中つ国の完璧な歴史と何代にもわたる系図、そして架空の、けれども、本当に使うことができるほどに完全なエルフ語、エルフ文字まで存在しています。
小説世界を真実のものにするために、架空の世界をこれだけ緻密に作り上げた作者の執念と愛着は凄まじいものがあります。(註)
『指輪物語』を読むということは、こうして、まったく本物そのままに作られた別の世界を体験するということなのです。
好きな人には、そのあたりが応えられない喜びというわけです。
つまりこの小説は、いくらでも深入りすることの可能な奥深い世界を持っているのです。
もっともっと『指輪物語』の世界に浸りたい人のためには、
『指輪物語』に至る以前の中つ国の歴史を描いた
『シルマリルの物語』、指輪を手にいれた顛末(てんまつ)を含むフロドの冒険の物語
『ホビットの冒険』等が刊行されています。
『ホビットの冒険』は明るいタッチの読みやすい物語で、ここあたりから
『指輪物語』の世界に入ると入りやすいかもしれません。
作者のトールキン生誕百年を記念して、評論社から素晴らしいイラストの入った改訳版が新しく刊行されたのをはじめとして、いくつかの出版社で“指輪物語”関係の企画があるようなので、これからますます“指輪物語”の世界は広がっていくのではないかと、たいへん期待の持てるところです。
2003年には、トールキンの遺稿を息子のクリストファー・トールキンがまとめた『終わらざりし物語』も刊行されました。
指輪戦争の前後譚の拾遺集といった趣の書です。
この書では、家主も翻訳者の一人をやりました。
(註)実は、トールキンの中にはエルフ語という架空の言語が先にあって、この言語のために『指輪物語』の世界は創られたというのが正しいようです。